ENo.937 綾辻優衣

降りしきる雨が、
彼女を覚醒させる。
ゆらりと立ち上がり、
辺りを見回すが、
雨で視界が悪く、
対して何も見えない。
ここに至るまで、
様々な事があった。
身体も、精神も……
既にもう限界を遥かに超えてしまっている。
どうあがいても、
もう倒れるしかないのではないかと思えるほどに。
神への信仰のみが、
彼女を支え続けている。
が、
いかに人間離れしているとはいえ、
それでも、超えられないものはある。
彼女は空を見上げ、立ちつくし、
一歩も動けないでいた。
(――ここまで追い込まれたのは初めてです、
ですが――)
瞳を閉じる。
ゆっくりと深呼吸をしてその場に立ち尽くす。
暫しの休息の中、
彼女は過去を思い出す――

＊　＊　＊　＊　＊

親しい友人がいた。
彼女にとってその友人はなんでも話せる相手だった。
苦しい時も、
楽しい時も分かち合った友。
しかし、
彼女が教団と袂(たもと)を分かって、
２年の時が流れようとしていた。
その間、
友人との関係も断たれていた。
――彼女は友人にとって裏切り者だったから。
そして、
友人を巻き込むわけにはいかなかったから。
当然ともいえる。
友人も、
それを分かっていた。
彼女ならばそうするという事を。
彼女がいつかそういう事を起こす事を。
黙っていたのは友人の優しさ。
そして、今――
彼女達は再会した。
雨に濡れ、傷を負った彼女に、
友人は手を差し伸べた。
匿(かくま)ってあげる、と。
彼女は断った。
だが――
友人は退かず、
半ば無理矢理彼女を匿った。
追跡者の手から。
すぐに出ていくという彼女に対し、
友人は言う。
せめて一晩、
傷の手当と、休息は取るべきだと。
渋々彼女は承諾し――
友人が傷の手合てをしようとした所で、
彼女は友人を殴り飛ばした。
「ッ――」
幽鬼のように、
殴り飛ばされた友人を見下ろす彼女。
そして、
傷の手当に使おうとした一つの瓶を取り上げる。
「……これ、毒ですよね。」
「――！」
まさかばれるとは思ってなかったのだろう。
息を飲む友人。
「……ですが、まぁ、助かりました。
　どうせ囲まれているのでしょうが――」
そのまま彼女は友人の口を抑え、縛りあげる。
「……これで時間は出来ました。
　では、出口ではない場所から脱出します。
　食料と使える医療道具は貰っていきます。
　――命は奪いません。
　それと感謝は致します。
　お達者で。
　もう――友と呼んだあの日々は戻りませんが……
　仕方ないですよね。」
友の裏切りも覚悟の上、
彼女は神以外の何も信じてはいない。
――そうであらねば、
生きてられぬのを、
誰よりも自分自身が知っていたから――
彼女はそのまま友を一瞥(いちべつ)する事なく、
その場より脱出する。
気付いたとしても手遅れ。
彼女はもう完全に逃げおおせている。
これも神のお導きだろう。
――きっと彼女が１つの勢力だけに追われる身であるならば、
こうも上手くはいかなかった。
経験も、状況も――
様々から追われ、
窮地に立たされたからこその離脱劇。
これを神に感謝せずにいられようか？
神を信じ、
愛し、
目指したからこそ、この状況になり、
尚も彼女は生きて前に進めるのだから――
彼女の道は正しかったといえる。
少なくとも、彼女自身はそう信じ――
なお一層曲げようとはしなくなったのは確実で――

＊　＊　＊　＊　＊

どれほどの時間、
雨にうたれ続けたのだろう？
辺りとうの昔に暗くなっていた。
否――暗くなっていたのではない、
闇に包まれていた。
だが、不意に気づく。
何かが近くにいると。
何がいるのかは分からない。
どんな存在なのかは分からない、
視界では捕らえられない、が――
気配だけはそこにあった。
とてつもなく暗い何かの気配。
(面白い相手には違いない、ですね……)
そうであるが故に、
彼女の気をひくには十二分過ぎた。
気配のする方向へ彼女は移動する。
天使と屍鬼、
異なる２体を引き連れて。
姿は捕らえる事は出来ない。
なれば、と彼女は瞳を閉じて、
宣言する。
闘いを挑む事を。
それに応じた……
訳ではないのだろうが、
避けては通れぬ道と黒い何者かも判断したのだろう。
凍える蒼き炎で
迎撃をする。
皮膚を凍てつかせ、
出来た傷口を燃やすその炎は、
彼女と屍鬼を燃やす。
だが――
彼女はここで一つ思いついた事を試す。
今まで片腕に使ってきた気の力を全て回復に回す。
そして、
それは、うまい具合に働いた。
治癒能力を高め、
みるみるうちに傷を癒していく。
暗いオーラを纏った敵は、
尚も絶えず攻撃する。
されど、
引きつれた天使と屍鬼に攻撃を阻まれた上、
驚異的な回復能力を有する彼女への有効打を放つ事が出来ない。
ゆっくりと着実に、
黒い何かの体力は削られ――、
気配が消えた。
逃げたのか、
それとも、どこかに倒れたのか、
それは分からない。
ただ一つ分かっているのは、
相手をうち倒したという結果のみ。
一礼をして、その場を去る。
中々面白い戦いだった。
相手の姿が見えない戦い――
きっと、この経験は後で生きる事になるだろうから――

浜辺をあるく。
その歩みは遅い。
疲れと傷がそうさせる。
それに――
以前戦った強敵の事もある。
迂闊には動けない。
(気を引き締めないといけませんね――)
最近、
自分が油断しきっている事に気づいた。
己の力のみで戦っていないとも思っていた。
だから――
そう。
これは彼女にとって運命で、必然で――試練だったのだと思う。
敵が現れる。
「どれ、貴様のワカメを見せてもらおうかッ！！」
ワカメの姿の男が一人。
どうやら、
ワカメから派生した異形らしい。
何時ものように、召喚の呪文を唱える。
だが――
何も起こらない。
どうやら力の消耗が激しすぎて、
そこまで力が回らなかったらしい。
(――私の力だけで、
という事ですか……)
更にいえば、召喚に全力を注いだ時に、
力は消耗しきったらしく、
何もできない状態になったいた。
頼れるのは己の肉体、
己の拳。
無策で殴りかかる。
拳と拳のぶつかり合い――
一進一退の攻防だった。
片手である事に問題はなかった。
逆に、
回復力と攻撃、
共に両立出来る事になった。
攻撃においては残った腕に力を一点集中すればよく、
回復に力が入る事で、
相手の攻撃がどれほど苛烈であろうと、
耐えきるだけの防御を得れた。
対するワカメ男も、
じわりじわりと回復をするが、
やはり、
劣性はいなめず、
どんどん踏込み、押していく。
(――勝てる。)
そう、彼女が確信したのも無理からぬこと。
このままいけば彼女が押し切っているのは火を見るより明らかだった。
だが――
そう物事が上手く運べることはあまりない。
故に、
気付かなかった。
ワカメ男が呼んだ波。
それが彼女を打ち据え、
体力を奪っていた事に！
(――！？)
がくん、と身体が揺さぶられる。
致命傷ではない、
立て直しは十分に出来る。
けれど――
それは猶予を与える事となる。
押し切れそうで押し切る事が出来ない。
不毛の泥沼ともいえる。
そして――
決着はつかず、
相手には逃げられた。
「……ふう。」
彼女の口から、
思わずため息が出た。
悪くはない。
十分過ぎるといえば十分過ぎる内容だった。
けれど……
(不満がないといえば嘘になりますね…)
不満は、あった。
それは……
(押し切れたはずなのに、
それが出来なかった。
不徳と精進不足です……
これでは、神へ至る道はまだまだ遠い――)
という事である。
神へ至る道。
それは果てしなく遠い。
躓(つまづ)いても前に進まなければならない。
だから、
躓いたのならば、
更に前に進むために、
心せねばならない。
失敗を失敗のままにしていては、
前には進めないのだから――
だから、満足はしない。
完全な勝利をおさめてもなお足りないのだから。
――喜びは喜びとして持ちながら、
上を目指し続ける。
目指すべき上は、
遥か雲よりも高く――