ENo.937 綾辻優衣

呼吸。
息を吸って吐く。
吸って吐く――
当たり前にして単調、
誰しも意識せずにする行為。
それを彼女は意識をして行う。
毎日数分ずつ、
合わせれば１時間を超える時間をかけて。
毎日意識する事で、
意識した呼吸は意識せずとも自然となって、
常にし続ける事が出来る。
だが、
それでも彼女は意識して呼吸をする。
更に正しく、
更に世界と正しく繋がる為に。
気を繰るに大切な事は呼吸。
体内に溜まった悪しき気を吐き、
世界を巡る気を取り入れる。
世界と同一化し、
世界の力を繰るに等しい。
人の身という限界があるとはいえ、
それでも、
人のみで出来る事を超えるだけの力を備え、
特殊な力の行使も可能となる。
そして、
それはまた、魔術等においても応用は可能。
つまり――
基本にして大切な行為ともいえる。
はたから見れば、
ただ目を閉じてぼぅっとしているように見えるが、
これはまごうことなき鍛錬である。
だが――
(……呼吸に乱れなく、
調子はいい――
けれど、しっくりこない――)
彼女は違和感を感じていた。
ここ最近ずっと感じている違和感、
その違和感が出だしたのは右手が無くなってからの事。
身体の欠損は、
全身に異常をもたらす。
普通であれば、
ただ不便という具合であり、
彼女にとっては腕に回す力を他に回せる分、
寧ろ有益であるのだが――
全身のバランスを欠く事は、
呼吸、技のバランスを欠くという事である。
毎日の鍛錬で違和感が重なれば、
それが大きくなってくるのも無理からぬことであろう。
そして、
その理由に彼女は気づき、
理解している。
だからこそ――
(……
己の全身を感じ、
世界を感じとり――)
その穴を埋める。
ゆっくりと呼吸を変える。
正直な事をいうと、
呼吸を変えるのは苦痛である。
合わないという現実を突きつけられるのだから。
だが、
それでもやらねばならない。
今後の為にも――
そして、
少しずつ少しずつ、
最適な方向へと向かっていく。
直には無理。
今まで身につけ修正した呼吸はそう簡単に、
大きな修正には至らない。
けれど――
彼女は真剣に、
最適な方向へと導いていく。
その努力が実るのはいつになるのかは分からない。
けれど――
それが早く出来ねば、
彼女が土の下で眠る日が来るのは、
そう遠くはない……

＊　＊　＊　＊　＊

「――熱心な事ですね。」
祈りを捧げていると、
後ろから声をかけられた。
いつも、私が祈っている最中に、
毎日のように祈りに現れているご老人。
彼女はそれを聞きながらも祈りを捧げ続ける。
挨拶を返すのはいつも、
祈りが終わってから。
祈りに集中しているからである。
今日はたまたま声を聞けてはいるが、
後、数分でも遅ければ、
彼女は完全に集中して、
声をかけられた事にも気づかなくなっていただろう。
だが、
「……」
彼女は無言で祈り続ける。
瞳を閉じて一心に。
それを老人も知っている。
だから――
それ以上何も言わない。
無言の時間が流れる。
１分、
５分、
１０分……
１時間ほど経過しただろうか。
彼女が祈りを終えて立ち上がると、
老人は椅子に座って彼女に向かって会釈をした。
彼女も会釈を返す。
すると――
「……毎日毎日、
　若い娘さんだというのに珍しいですね。」
老人は珍しく私に話かけてきた。
いつもなら言葉を交わすといっても、
挨拶くらいだというのに。
「いえ、当然の事ですから。
　祈りを絶やす事の方が私には考えられません――」
「……何が貴女をそうまでさせているのでしょう？
　いえ、神に祈る事は悪いとはいえません、
　けれど、貴女くらいの年の頃ならもっと他にする事も――」
「……私は全てを神に捧げると決めたから、
　幸せなのですよ。
　後は私は神の事をもっと知り、
　神に仕える為に、
　神の御許へと近づけるよう、　
　……他の事についてもそうです。
　そして、私は幸せですから問題ありません。」
「……そうかい。
　私が何をいってもその件については無駄なようだね。」
老人は少し苦笑いを浮かべる。
その様子をみて彼女はゆっくりと頷くと、
「――私の父親は、
　とてもいい人だった。
　いい人だったんだが――
　戦争で死んでしまってね。
　――神様にもあんなに祈ったというのに……
　何故か、貴女を見ていると、
　父を思い出してつい――
　複雑な気持ちになってしまって――」
「……そうだったのですか、
　それは辛い想いを……
　……
　神をお恨みになりましたか？」
「……最初は。
　けれど、それはお角違いだと思えるようになってからは……
　こうして時折祈りに来ていますよ。
　……それでも……
　という事もあるのですけども――」
「……」
「……」
沈黙が落ちる。
「……不幸が、あっても――
　それは神のかせられた試練――
　私はそう思います。」
その沈黙を破ったのは彼女の一言。
「……そう、なのかもしれませんね――
　……ならば、貴女に一言だけ。」
「……？」
「……心と身体、どちらも繋がっている。
　どちらかが欠けたなら、
　それはいつも通りでいられないという事――
　……私の父のように――
　身体が欠けたことがきっかけで、
　命を落とさぬよう……
　……平和な世の中、
　そういう事は滅多にないとは思いますけれど――」
「……ご忠告、ありがとうございます――」
……
彼女は今も、覚えている。
老人と交わした言葉を――

＊　＊　＊　＊　＊

――敵を待ち受ける。
相応しい相手と戦えるよう願いつつ。
どんな敵が現れるかは分からない。
けれど――
もてる力を振り絞って勝利を掴みとる。
そう心に誓って。
そして――
彼女の前に一つの影が現れる。
それは丸く、手足のない存在。
次第に姿がはっきりと現れる、
それは、
達磨。
手足無き人の形。
それが動いている。
普通では考えられない。
けれど――
(この世界は私の知る“普通”ではない――
……
ならば、不思議な事はありませんね――)
ここは、彼女のいた世界ではない。
だからこそ、
そういう事があったとしても、
可笑しなことなど何もない。
そして、
彼女は闘いを挑む。
それに対して、
その達磨は私の方を見て……
「やさしくゆっくりつついてね☆」
明るい声でそういった。
豪胆なのか、
分かっていないのか、
それは分からない、が――
(油断するわけにはいきませんね――)
彼女はゆっくりと蛇を呼び出す。
達磨に対して毒が効くか分からないし、
どんな力をもっているのか分からない以上、
様子見の意味も込めて。
そして、殴りかかる。
手ごたえは十二分、だが――
すぐさま起き上がり、
起き上がった反動で反撃を繰り出してくる。
中々面白い。
確かに達磨の特性を兼ね揃えている。
ある程度の衝撃は吸収し、
それを返してくる。
――
ここまで来るのに大分激しい戦いを繰り返したのだろう。
消耗もまた見て取れたが――
それは彼女も同じ。
だが――
彼女の消耗の方が少なかったためか、
闘いはそう長くは掛からなかった。
拳が撃ち貫く。
蓄積された衝撃は、
達磨の限界を超えていたのだろう。
その一撃で吹き飛んだ達磨は、
こけて立ち上がらなくなった。
……とりあえず、
達磨を起こし立ち去る事に。
予想外であったし、
まだ闘える気もしたけれど――
面白くはあった。
礼をして立ち去る彼女。
それにしても……
可愛い達磨だったと思う。
……
達磨といってよかったのかどうか、
それは分からない程に。

……先を急いでいると、
再びワカメの男が現れた。
先だってはただひたすら殴るだけで、
決着はつかなかった。
だから――
彼女は屍を喰らう鬼を呼び出し、
呪いを叩き込んだ。
ワカメの男はそれくらいでは怯まない。
それは分かっているし、
一人増えたからといって引くようなタマではない。
果敢に攻めてくる。
それに対し、
彼女は己を癒しながら拳を叩き込み続ける。
恐らく、
殴り続けるだけでは、
以前の二の舞になっただろう。
だが、今回は依然とは違う。
初手に放った呪いの拳、
そして傍に控える屍食鬼。
攻撃の手数が増えるという事は、
それだけ相手に与える打撃が増えるという事。
そして――
以前の戦いでは後一歩まで追い込んでいた。
それ故に、
ワカメの男に耐えきれるはずもなく……
勝利をもぎ取る事に成功する。
そして彼女は
「私を倒したとて、
　日々増え続ける同志が再び貴様を襲うのだ……」
ワカメの男が残した最後の言葉に、
喜びを隠せぬままその場を後に――