ENo.8 緋乃宮詠

人間の精神は脆い。

天災や人災などの危機と呼ばれる状況に際し、群集の成員は、まず自己を守ることを優先する。

個々が個人的な思惑に従って行う、秩序なき振る舞いは、やがて反響反応によって広域に拡大。
結果として、いわゆるパニックと呼ばれる集団的な混乱状態が引き起こされる。
混乱のさなか、十全の理性を、道徳を、社会的秩序を、かつてより変わらずに維持することは困難だ。

ならば、天災や人災によるもの以外であれ、それが危機である限りは人の心理は同様か、或いは良く似た経過を辿るだろう。

そう────例えば、たった一人で“訳も分からぬ異世界へ放り出されてしまった”としても。

真実、彼女は奇蹟も知らず。魔術も学ばず。まして異世界などと、フィクションの中でしか目にしなかった。
現代日本における常識に塗り固められた、紛れもない一般人である筈なのに。

されど彼女、緋乃宮詠はアンジニティに適応している。

文化も、治安も、インフラも、周囲の人々も。
かつて、自らを取り巻いていた筈の、ありとあらゆる存在が朽ち果てた現況においてさえ。
感情を物質化し、遂には操作して。襲い来る賊や異形の原生生物を、血みどろの肉塊へと変えて、なお。

自失することすらなく。混乱することすらなく。恐慌することすらなく。
満ち足りた衣食住が保障されていた頃から、変わらぬ自分を保ち続けていた。

むしろ、この世界こそ、本来在るべき姿だと。
このチカラこそ、兄に侍り付く害虫どもを、鏖殺せしめる手段だと。
倫理を、法律を失った今ならば、彼はきっと、私を受け入れてくれるに違いないと。

そう自分の中で解釈し、それを真理と信じて、そうして自らの基点とした節さえあった。

否。アンジニティとの呼び名は、半分が正解で半分が誤りだ。

彼女にとって、アンジニティはあくまで日本の延長線上である。
自らが「壊れてしまえ」と願い、結果その通りになってしまった未来に他ならない。

私が望んだ。私が焦がれた。何よりも、私が“有り得て欲しかった”全て。

それらが今、正しく自分を取り巻いている。
ならば、ここに居る限り、不幸な結末など有り得ない。
この身は既に、世界から愛されている。故にこそ、地球はその姿を、私が望むままに変容させたのだと。

少なくとも彼女はそう認識していたし、それを否定できるような、確たる反証も持ち得なかった。

だから、ここが自分の望んだ世界でないという可能性に触れた時、少なからず動揺したのだ。

エアリード・F・バチスカーフ。出会った切欠はほんの些細な偶然だった。
たまたま視界に入った少女の、その装いが余りにも可愛らしくて。つい我慢できず、声を掛けただけ。

亡き両親は兄妹に宛てて、一生を五度遊んで暮らせるだけの遺産を残してくれている。

故に、緋乃宮詠は、例えば孤児をテーマにした小説と、対極に位置する生活を送ってきた。
何不自由ない富んだ環境。とりわけ彼女は、服飾の分野に関して、投機する金額を省みたことがない。
有名ブランドの新作は必ずチェックしているし、ファッション雑誌を幾冊も取り寄せて、自分なりに研鑚を重ねた。

その彼女がかつて目にしたこともないようなファッションを、幼いけれど眉目麗しい外国人女性が総身に纏っている。
となれば、そのブランドを、そのコーディネートを、是非とも網膜に収めたいと思うのは、詠にとって当然のこと。

そんな衝動を伴って、彼女はエアリードのもとへと突撃したのである。

それは、結果として、とても幸運な邂逅だったのかも知れない。

詠よりも一回り小さい背丈の彼女は、しかし齢300を超える長命種だという。
その話を、外国人得意のジョークだと、最初こそ一笑に付した。
当然だろう。創作物の中ならいざ知らず、この世の何処に300才の少女が存在すると言うのか。常識的に有り得ない。

されど─────少女の瞳は、それが紛れもない真実だと告げていた。

人間が嘘を吐く時、視線は向かって左に流れる。
心理学の実験を根拠とするこの法則は、脳の働きに起因したのものだ。
即ち、脳が過去を遡る時、視線は右を向く。逆に、脳が未来を想像している時、視線は左を向く。

詠は、この法則を兄以外のすべての人物に当て嵌めていた。もはや癖と言っても良い。
相手が、自らに益する人物か。はたまた、自らに害する人物かを判断すること。
これこそ、幼き頃に両親を亡くし、莫大な財産を手にした一人として、自衛のために身に付けなければならなかった、手段のうちのひとつ。

心理学的法則と、培った経験からして、少女は嘘を吐いていない。
ならばここは、本当は日本ではないのではないか。それどころか、地球ですらないのではないか。

そう、彼女の思考が帰結するまで、さほど時間は掛からなかった。

だとしたら──────

私の話を遮るでもなく、糺すでもなく。
ただ静かに聞いていた蒼き眼の少女は、私が間違っていると知った上で、敢えてそうしていたのだと。

最初から、本当のことを告げていたなら。
きっと、私は取り乱してしまうから。だから、尋ねられるまで、この世界の真名を伏せていたのだと。

だとしたら─────ソレは一見、無愛想にも映る少女の、エアリードなりの優しさではなかったか。

否、ソレは正しく詠の思い込みで、少女が意図した結果ではなかったかも知れない。
けれど、元居た世界で、金欲と欺瞞に晒され続けてきた彼女には、紛れもなく優しさと感じられたのだ。

この人は、信用して大丈夫。

エアリードの言葉を真実として、認識を改めなければならないことがある。
そして、何よりも。自分の問いに、在りのまま答えてくれた少女へ、伝えなければならないことがある。

ヨミ「エアリィさん─────」