ENo.225 Ashley=rlungvate

だれかがきずつくとしりながら
それでもかれは
ぬくもりをもとめずにはいられなかったのです

『――――もう一度問おう。汝は、このまま死に絶える事を選ぶか。それとも生き抜く事を選ぶか』

感情を一切宿さない声が、頭に流れ込む。
物語に聞く悪魔との取引のようなものを彷彿させるその声は、しかし、瀕死の男にとって願ってもない甘美な誘いだった。
望みを叶える代償は、ともすれば死よりも恐ろしいものなのかもしれない。
けれど、今の自分は死神か悪魔を選べという選択肢を出されただけだ。
どちらにしても、最悪な方向へ転がるというのなら、自分は……。
最早思考する事すら出来なくなってきていた男は、そして決断する。

――――――――――――――・・・

バレンタイン‐デー【Valentine Day】
2月14日。270年ごろローマで殉教したテルニーの主教聖バレンティヌスの記念日。ローマの異教の祭りと結びついて女性が男性に愛を告白する日とされるようになり、日本ではチョコレートを贈る風習がある。セントバレンタインデー。

来たる焔の月の13日目。
どうやら、バレンタインデーは世界共通らしい。
通り過ぎたスティルフの街では女性が男性にチョコレートを渡すのが多く見受けられ、平和だな、と安堵する。
この平和をセルフォリーフ全土のものとする為に、僕はこの世界へとやってきたのだ。
志を新たに、今後の鍛錬にはより力を入れていこうと誓う。そんな時だった。
「ね、ねー。…ア、アシュレイ…」
聞き覚えのある声に振り返れば、そこに立っていたのは《魔法のパン屋》、モニカ・アプリコットだった。
セルフォリーフに来て間もない頃、諸々の事情で空腹で倒れかけていたところを彼女に救われたという大きな借りがある。
つい最近再会した時は、巡り会わせを神様に感謝したものだった。
しかし、そんな彼女が僕に何の用だろう。
「やぁ、モニカちゃん。どうしたの？」
僕の疑問の声に対し、何故か彼女はあわあわとした様子で答える。
「あのっ、あのちょっと、そのっ…チョコレートケーキ…作ってみたの…受け取っ…」
「な、なんでもないわっ！これは…そう！う、売れ残っちゃったのっ！だ、だからアンタにあげるっ！！」
声が小さくなったり大きくなったり、忙しない子だなぁ。
途中聞き取れないところがあったけれど、どうやら売れ残ったらしい商品のお裾分けのようだった。
「そうなんだ……こんなに美味しそうなのに売れ残るなんて、お客さんは見る目が無いね……。
　わざわざありがとう。大切に食べさせて貰うね」
すると、彼女は僕に丁寧にラッピングされた包みを投げるように手渡す。
「そっ、そういうわけだからっ！別に変な意味なんか、ないんだからねっ！か…勘違いしないでよね！」
言い終えるかどうかのうちに、彼女は脱兎のごとく走っていってしまった。
勘違いって、何のことだろう……？
そんな疑問に首を捻るうち、彼女はみるみる見えなくなった。今度会ったらお礼をしなきゃな。
この世界、バレンタインデーがあるってことは、ホワイトデーもあるんだろうか。
貰った包みを荷物の中に仕舞うことも忘れて考え事をしていると、これまた聞き覚えのある声によって意識が呼び戻されたのだった。
「はい、これ！喜んでもらえるとうれしいんだけど」
「シズクちゃん」
蔵鉄鎮紅。メルキュレさんたちと旅を始めてすぐに話しかけてきてくれた子だ。
《発明家》たる彼女は、己の意思に反して双子の兄と共に此処へ迷い込んできたのだという。
そんな事情にも関わらず、この世界を助けたいと願う優しい心には僕も胸を打たれたものだった。
「渡すのが僕で本当に良かったのかい？ほら、お兄さんには――」
僕の問いに対して、彼女は首を振る。
「好きな人にあげるんでしょ？」
物怖じもせずそう言い切った様子に、一瞬硬直してしまった。
すると、彼女は僕の反応を待たずに続ける。
「あー、そっか、分かった、ごめんね。わたしの要らなかったか。
　あ、いいの、ぜんぜん。ほら、さっきなんか真っ赤なモニカちゃんがいたし、わかってる、わかってるんだ、わたし」
笑顔のままそう言って、彼女は差し出したチョコレートを引っ込めようとする。
僕は半ば反射的に、その手を掴んでいた。
「要らない訳、無いじゃないか。きみは勇気を出してこのチョコを渡してくれたんだ。だというのに、大人である僕が逃げることなんて出来ないよ。……だから僕は、《ありがとう》と言おう」
シズクちゃんの眼をしっかりと見据えて、ゆっくり言葉を紡ぐ。
「きみはモニカちゃんと自分を比べて卑下しているようだけれど、そんなことは無い。
　……言ったろう？きみにはきみの良さがある、って。自信を持って。きみは、とても魅力的だ」
他に気の利いた台詞回しは思いつかないし、自分がそういったことに関して不器用なのは自覚している。
だからこそ、今の僕に出来ることは、彼女の覚悟に対し、本気で応えることのみだ。
「……ただ、僕はたとえ相手が誰であっても、共に歩むことは出来ないんだ。……今までずっと黙っていて、本当にごめん。僕は、きみに一つだけ、ウソをついていた」
「え…？」
鎧を脱ぎ、胸元をはだける。心臓の位置に刻まれた刻印は、赤く、紅く、赫く輝いて。
この光を目の当たりにすれば、たとえ魔法に縁の無い彼女でさえ、第六感が警鐘を鳴らすことだろう。
僕の中には、邪悪な力が蠢いている。《魔》そのものが、この身体の内に存在する。
――そんな僕を、人と呼ぶことなど、出来ようもない。
ましてや、歩み寄れることなど――
「僕は、人々に害為す悪だ。本来ならば、存在することさえ許されない、響想の世界に生まれ出でた、《暴想》の災厄」
願わくば隠し通しておきたかった事実。
けれど、“これ”が一番手っ取り早い以上、躊躇はしていられなかった。
「……！？」
――彼女はがくん、と崩れ落ちるとその場にへたり込んで、目を見開いて泣き出した。
悪いことをしてしまったなと思う。けれど、隠していたことがバレてしまうよりは良かった筈だ。
「ごめん。……、……、ごめん。分かってたんだ。僕は、最初から最後まで、孤独であるべきだった。だというのに、僕は……きみに関わって、きみを……傷つけてしまった。」
自分がただの人間であったなら、起こる筈の無かった問題だ。
自らの不甲斐無さに、消えてしまいたくなる。けれども逃げるわけにはいかない。最後まで。最後まで。
すると、僕の謝罪の言葉を聞いたシズクちゃんは、ふるふる、と首を振って。
「ちがう、ごめん……怖いけど、怖いのは……アシュレイのことじゃない」
「……？」
彼女は光から目を庇って、そのままぐいっと、涙を拭いて。
「それ、痛くないの？痛そうだし、辛いんでしょう？」
どうして、そんなことを聞くんだろう。
「だってアシュレイ、そんな顔しなかったじゃない、ずっと、笑ったりしてたじゃない」
僕よりも、僕に裏切られた今のきみの方が、よほど辛い筈なのに。
涙を拭いた彼女に、僕は薄く微笑んで、嘘を重ねた。
「痛くないし、辛くもないよ。もう、慣れちゃったからかな。僕はこれから先も、一生こいつと一緒なんだ。だから、……、だから、もう、慣れた」
歯の根が合わない様子で、肩もわななかせながら、それでも彼女は気丈に僕を見据えて言葉を紡ぐ。
「嘘、ここにいるわたしがこんなに怖いのに、アシュレイが怖くない訳、ない」
やめてくれ。僕が求めていたのは、その言葉じゃない。
幻滅してくれ。僕を拒絶してくれよ。そうしたら、きみをこれ以上傷つけなくて済むんだ。
「だって、それわたしじゃなにもできないじゃない……」
ごめん。ごめん。何もしなくていいんだ。きみが背負うべきものは何も無い。
肩を抱いてぼろぼろと泣き出す彼女を見て、思わず自分まで泣きそうになる。
そんな自分の心を律し、僕は口を開く。静かに、力強く。
「これは、僕の罪だから」
そうだ。今の僕の命は、僕の罪の証そのものなのだ。
「大切な人を護れなかった。《災厄》と取引をした。復讐に刃を赤く染めた。……それだけじゃない。僕の歩んできた道は、罪そのものだ」
両親の仇を殺し、平和の為に多くの戦いを重ね、一体どれだけの怨念を背負ってきたのだろう。
自分のような人間が、誰かと添い遂げることなど望んでいい筈が無い。
「十字架を背負ってでも、僕は前へと進まなければならない理由があった。だから、こうして生きて、きみと出会えただけで、多分に幸せなのさ。……自分を、責めないでおくれ。悪いのは、全て、僕なのだから」
「そんな嘘つかないで、いっぱい嘘ついてるのに、今度はわたしと出会えたのが幸せとか、言わないで。
子供だからって、だまそうと思って、ごまかさないで。
わたしが聞きたいのそんなんじゃないんだから、わたしは」
――ぷつん、と、糸が切れたように、ころん、と地面に伏した。
気を張りすぎたか、光の刺激が強すぎたのか、ともかく気を失った彼女は土の上に転がる。
「……ごめんね、シズクちゃん」
起こさぬよう、小さく呟く。その時の僕は、どれほど情けない姿をしていたことだろう。
結局、僕は彼女に最も酷い仕打ちをしてしまったのだ。
気を失った少女を背負い、街の宿屋へ向かって歩き出す。

「《二度目の始まり》の対価は、《渇望》だった。
　僕が幸せを手に入れてしまえば、この世にはいられなくなる。《災厄》を滅ぼした今も、その契約は絶対のものだ」
誰に言うでもない。けれども、僕は告白せずにはいられなかった。
「今のイェラルカルナにも、セルフォリーフにも、僕にしか出来ないこと、僕がやらなくちゃいけないことがある。
　……本当に、自分勝手だよな、僕は」
契約の対価。あらゆる魔術師も、僧侶も、魔王も、神でさえ覆すことの出来なかった理。
勿論、大切な人を傷つけたくないというのも大きな理由だが、結局のところ、僕は『死』を恐れていたのだ。
けれど、たとえ最後の最後まで、誰にもそれを言うことは無いだろう。
――僕は、英雄なのだから。

宿の前まで辿り着き、主人に言伝を頼めば、通された部屋のベッドに彼女を寝かせて。
「――――」
聞こえない程の声で小さく呟いて、《額》にそっと口付けた。

「なぁ、ミスト。空はどこだって繋がっているよな。そっちは、どんなところなんだい」
宿を出て、空を見上げる。そこに居るはずの無い者へ、声を投げかける。
それは、かつての仲間。それは、かつての親友。どこまでも聡明で、……けれど、愚かな、幼馴染。
「僕は、きみを助けたかった。なのにきみは、独りで逝ってしまった。
　僕を助けて、格好つけて。……『残された者』の哀しみは、今も僕の胸を苛んでいるよ」
それは、今も胸に巣食う痛みの記憶。僕は、未だに振り切れずにいる。

「……ごめん」
不意に口をついて出た言葉が、快晴の空に消える。それきり、僕はそこにいられなくなって、走り出してしまった。