「——で、頭はだいじょうぶだったのか？」
　そう問うた少年は、鮮やかな花の色の目をしていた。花の名前は菫。花の色に混ざって浮かぶものは、苛立ち、呆れ、疲労感。
　隠す気も無いそれらの色を眺めながら、ファルクレイは尻尾を揺らした。
「別段問題と言えるほどのことは無いね」
　菫色の目をした少年は、ノエルという。ラノエルージュ・カネルベージュという名をうんと縮めた愛称だ。
　ふぅんと応じたノエルもまた、尻尾を振る。——彼もまた、花色の瞳の他に目立つ特徴として獣の耳と尾を持っていた。
　そして更に、彼の尾に払われて、慌てたように退いた手があった。といってもそれはノエル自身の手では無く、彼の後ろに立って尻尾やお下げ髪を弄ろうとしていた子どもの手だ。
　手の持ち主である娘は金色の髪を翻し、ノエルとファルクレイの側を離れて行く。行き先を目で追えば、丸めた毛布の上に腰を下ろした巨漢の姿があった。
「ノエルがいじめる」
　クローシェはそう言って、みずからの養い親である巨漢——フォルカーの影へと隠れる。
　対するノエルが鬱陶しそうに彼女の方へと目線を投げると、入れ違いにフォルカーが手刀を切った。そしてそのまま、クローシェを隣へ座らせる。
「犬は尻尾を触られたくないんだよ。ほら、それよりこっちでお父さんと昼飯の用意しような」
　クローシェはしばらく恨めしそうにノエルを見ていたが、結局、観念したようにフォルカーの作業を手伝い始めた。
　それを見届けたノエルは溜息と共に肩を落とし、そっと傍らの戦槌に指を添えた。

＊＊＊

　——大変平たく言えば、それは不幸な事故であったのだと思う。
　サラマンとチャチャカの手引きで地下牢への隠し通路を目指したファルクレイ達は、同じく地下牢へ向かう人影を見つけた。
　ただし問題であったのは、その人影が余りにこそこそと、真っ当とは思えないルートで地下牢に向かっていた点だった。
　後にトキサメの目を潜り抜けてやって来たと分かる彼の動向を訝しんだ結果、ファルクレイは先陣を切って人影へと踊り掛かり、思い切った反撃を食らったのだ。その反撃に用いられた凶器こそが、まさしくノエルの傍らにあるこの戦槌である。
　思い切り頭を殴打されたときには心底驚いたが、後になって見ればなんのこともありはしない。たんこぶひとつできなかった辺り、戦槌自体は武器として優秀でも、使い手であるノエルがドのつく素人なのだ。たぶん。
　ちらちら何度もこちらの頭を眺めて来る辺り、その推測は間違っていないだろうとファルクレイは思う。真っ当な使い手ならば、ファルクレイがあれくらいでどうにかなるような獣だとは思いもすまい。
「しかしひとりで偵察とは思い切った真似をするな、お前も」
　戦槌の柄に施された薔薇輝石の細工をなぞる指は細く、これもまた、争いに慣れた風を感じさせない。
　ノエルは驚いたように戦槌の柄を撫でる手を止め、
「これは、その、」
　今度は膝の上に抱いた小箱の上に手を置いた。
「噂で場所が出回ってたし、僕一人なら全然行って帰って来るぐらい簡単だと、思って……」
「ふぅん」
　ふと見れば、ノエルの背後には再びクローシェが迫りつつあった。彼女を見張っていたフォルカーはといえば、エンブリオと話し合うのに手一杯であるようだ。
　これはノエルにとってまずい状況であるかもしれない。などと考えていたら案の定尻尾めがけて飛び掛られて、ノエルはわあわあ仔犬のような悲鳴を上げる。
　木杓子を片手にフォルカーが仲裁に飛び込んで来たときには、もみ合う最中に抜けた毛がそれなりの塊になって床に散らばっていた。
「そろそろ夏も終わりだ。そう気を落としなさんな」
　ファルクレイはくつくつと喉を鳴らす。対するノエルはしばらく口の中でもごもごぼやいていたが、
「悪魔め……」
　の一言で決着をつけたようだった。
　それからまたしばらく尾の毛を物惜しげに撫でていた彼の前に、心底申し訳のなさそうな顔をしたフォルカーが昼食の牛乳粥を持ってやって来る。
　ノエルは複雑そうな顔で器を受け取り、少し考える素振りを見せてから牛乳粥の匂いを嗅いだ。
　そしてすぐに眉を顰めると、ファルクレイの前に皿を置いていたフォルカーに向けて声を掛ける。
「僕、あんまりお金とか持ってないけど……」
　対してフォルカーは目を瞠った。それからすぐに破顔すると、
「金を取る心算は無いよ。クーの知り合いなんだろう？　足りなかったら、おかわりもあるから」
　とだけ言い残して少し離れたクローシェの元へと去って行く。
　それを見送ったノエルはえらく微妙そうな顔をしながら、ようやく牛乳粥に口を付けた。
「……これ、チーズが入ってる。あと、入ってないものの匂いがする」
「ああ、隠し味な。匂いは鶏と野菜の出汁だ、うん」
　へぇ、と応じる声はいくらかぞんざいだった。視線を投げれば、ノエルはせっせとスプーンで牛乳粥を口へと運んでいる。どうやら口に合わないということはなかったようだった。

＊＊＊

　ノエルがフォルカーを手伝って昼食の後片付けを始めた後は、ファルクレイがクローシェを預かった。
　彼女はよほど犬の尻尾にご執心らしく、軽く振ってやりさえすれば、ファルクレイの尻尾にもえらい勢いで食いついて来る。猫の子をあやす気分で相手をしてやることしばし、尻尾の毛を立てたノエルが側に戻って来た。
「そろそろ偵察に行こうと思う」
　と彼は言う。
　そうして大真面目な顔で戦槌を拾い上げるノエルを、心配そうにフォルカーが見ていた。
　同行してやれ、と彼の目は雄弁に語っている。なんで俺が、とファルクレイは思った。
　なにせファルクレイは獣のような顔をしているが、実際にはもっと違う存在である。その気になれば五感よりも優れた情報収集手段があるのだ。それを使って地下牢の安全な場所を確保したというのに、今更偵察に出かけるのなど馬鹿馬鹿しいにも程がある。
　フォルカーもそれは理解しているだろうに、ついて行けとはあまりの言い分である。
　そのくせ、半分よろめきながら頭を下げ、戦槌を抱えて歩き出すノエルを止めない辺りも、ファルクレイの理解の範疇外だ。止めてやればよいものを、と思った次の瞬間、フォルカーはファルクレイにだけ見えるように小さく口を動かす。
　声も無く呟かれた台詞は、なんのこともない、子ども染みた脅し文句だった。
　けれども、そこには確かな意思が感じられる。
　やれやれと肩を落として、ファルクレイは傍らで尻尾を掴んでいたクローシェの襟を咥えて背中に載せた。
「俺もちょっと偵察に行く。ついて来ても構わんぞ」
　言いつつノエルの傍らを抜けたとき、彼の戦槌の石突を支える黒い手を見た。エンブリオの類にしては妙な外見だ。
　はてと首を捻る後ろから、ノエルは重々しい足音を立ててやって来る。
　けれどもそれもだいぶ遅れがちで、エンブリオに戦槌を支えさせている風にはまったく以って見えなかった。
　よってファルクレイは、地下牢の通路を歩く最中に足を止め、ノエルの襟首を咥えて持ち運ぶことにする。またわあわあ仔犬のように騒ぐ彼は、得物の重量を差し引いて考えるに驚くほど軽い。
「もう、なんなんだよ、揃いも揃って……」
　諦めたような声を聞くに、どうやら彼の周りには世話焼きがもうひとりはいるらしい。恐らくはあのエンブリオのことであろうなと、狼は思った。

＊＊＊

　形ばかりの偵察を終えて拠点に戻ったのは、恐らく、夜であろうと腹時計が告げて来た刻限のことだ。
「おなか空いた！」
　と一声、クローシェは一直線にフォルカーの背中へ飛び掛かる。彼女は普段なら確実に食べている間食を今日に限って抜いたのだ。飛び掛られた側もそれを気にしてはいたらしく、背中に抱きついた愛娘を捕まえると、すぐに膝の上へと載せた。
　それを見守るノエルはといえば、少しばかり青い顔をしている。
　偵察の最中にファルクレイの牙を逃れ、再びみずからの足で歩き始めたものの、彼の細腕にはやはり戦槌が重過ぎたらしい。
　ふいにそんなノエルを振り返り、フォルカーは労るような笑みを浮かべた。ただしそれは、今から犬鍋を作ります、とでも言いたげな笑みだ。
　ノエルもそんな想像に至ったらしく、それでも気丈に首を振った。箱と得物とをしっかり抱え直し、再び頭を下げる。
　途端にフォルカーは目を瞠った。
「夕飯、食べずに行くのか？」
　対するノエルもまた目を見開いた。心底意外そうな顔を見ながら、フォルカーは火に掛けていた鍋の蓋を開く。
「ほら、好物だって言ってたから。肉団子。きちんと玉葱抜きだ。食って、寝て、朝早くに出る方がいいんじゃないか」
「それは……ええと、」
　ノエルはわずかに顔を顰めた。
　然もありなん、とファルクレイは思う。狼であるファルクレイの鼻はただ万然と歩くだけでも、地下牢の情報をはっきりとファルクレイに告げてくれる。告げられる主な情報は、微かではあれど確かな死臭——恐らくは地上の噂通りに不死者が存在することに、ノエルも気づいているのだろう。
「この辺りなら近づいて来ればすぐに判るよ」
　ファルクレイは尾を一振りし、フォルカーの傍らへと歩いて行く。
　えっちらおっちらついて来たノエルは、ファルクレイの巨躯を挟んでフォルカーの反対に座る。
　軽く眉を上げてそれを眺めていたフォルカーは、並べた鍋のひとつから、早速木杓子で肉団子を掬い上げた。
「これで良かったか、肉団子。詳しく聞かなかったから、口に合わなかったら——」
「これでいいです！」
　意外に強い語調で、ノエルは答えた。そのまま勢い良く器を受け取って抱え込む。
　フォルカーは困ったように笑って、その器に蒸した野菜をいくつか放り込んでやった。
　それが終わると今度は他の人間の前にも、器が並べられる。本日のメインは焦がし小麦粉のソースで仕上げた、香辛料入りの肉団子だ。濃厚な味のソースはほんの少し清涼感のある香りが付いている。
　外より気温の低い地下牢では、御馳走と言っていいメニューだろう。
　食いつく最中にちらりと伺えば、ノエルはだんまりのまま、丁寧に肉団子を何等分かにしてちまちまと食べていた。
「おかわり」
　ファルクレイは肉団子数個でひとくちだ。ソースまで舐めた皿を咥えて差し出すと、
「少しは味わえ」
　とフォルカーに鼻面を小突かれた。それでも次の一杯はきちんと入れてもらえたから、とりあえずは良しとする。
「ノエル——は味わって食ってるな。おかわりもあるから、」
「——食べます！」
「……クーに全部取られないようにな」
　にわかに、ノエルも豪快に肉団子と野菜を口へ詰め込んだ。垂れた耳がばたばた跳ねて、ほどなく、唖然とするフォルカーの前に綺麗に片付けられた皿が差し出される。
「全部玉葱抜きにするべきだったか」
　そうぼやくフォルカーは、それでも食べる量についてはなにもけちを付けずに、鍋を囲む誰にもに平等な給仕をしてくれた。最後は残ったソースまでパンで拭って片付けてから、オレンジの皮の砂糖煮を入れたマドレーヌまで出してくれる。
「……よく食べた」
　とノエルが結論した折が、フォルカーにとってようやく落ち着いて自分の晩飯に取り掛かれる時間だ。
「片付けは……」
「落ち着かないから、終わってからやる。気にしないでいい」
　ノエルは所在無げに尻尾を立てた。
　それとほぼ同時に、忍んでいるとは言えない忍び足で彼の背後にクローシェが迫る。忠告をしようかと思った次の瞬間、クローシェはノエルの尻尾めがけて飛び掛り、同時にさっとノエルの尾が大きく振れた。
「毛、抜いたら怒るからな」
　尻尾は呆気無く娘の手に掴まれた。捕まえた側はちょっぴり驚いたような顔をしてから、その尻尾でばしばしファルクレイの背中を叩いてくる。
　叱ろうか、と思わないではなかったが、尻尾の持ち主が黙っているので狼もまた黙っておくことにした。
　どうせクローシェの寝る時間はもうすぐだ。しかも明日になればノエルはいないのだから、今日くらいはこのままでもいいと思った。

（ENo.1161 ノエルさんをお借りしています）

（ギガヤは珍しく大人しくしている！）

取り出した携帯電話に特に興味を示されなかったようなので巾着に戻した。

クローシェに変なカエルだと言われたことがよほどショックらしい

　家畜から見れば、人間は怪獣。
　毛むくじゃらの言い回しに、トカゲは「おおっ」と唸り、頷いて見せた。

　ああ言えばこう言う爬虫類であった。

そう言いながらシエラは幼女を抱えて地面へと下ろす

気が付かなかった事への言い訳や照れか、ちびっこ相手にもかかわらず、ちょっとむきになって反論しているように見える。

大人げない事をしていると我に返れば、二人ともけが無しであったことに胸をなでおろしたのだった。

"飼われてる"の一言に、ついつい少女と"大きいヒト"のやり取りに耳を澄ませてしまう。
心温まる交流に、心の中でそっと涙を流したが……

少女の"大きいヒト"への扱いがあまりにもあまりで、余計かもしれないなあと思いつつも、結局口を出してしまうのだった。

こちらの質問はきっと、好奇心からでたそれに違いない。
質問を口に出した後、"もしかして聞いたらいけなかったかな"という後悔が、表情を横切って行った。
"大きいヒト"の相槌代わりに動く耳にはきっと、頭巾に隠された耳が、申し訳なさそうに後ろへ動いた幽かな音を聞きとることができるだろう。

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まじまじとファルクレイを見たが、それっぽいものが見当たらなくて首をかしげている。