Boy be ambitious

　赤き真円の月がが頭上高く昇るにしたがって、その赤さを増していく。照らされる大地もまた、赤く染まっていった。　夜行性の動物も昆虫も、今宵ばかりはその姿を見せない。時折吹く風が、草木をわずかに揺らすだけ。

　月が天頂に届くころ、草原に転がる大岩に小さな人影が現れた。纏う外套は赤き光によって、その赤さをより深くしている。横顔は、決意と自信に満ちた瞳を輝かせているものの、まだ幼さを残している。
　少年は待っていた。少年の目の前に現れるものを。天空より届く赤き光に導かれ、現れるものを。





　古くからドラグナと呼ばれ忌み畏れられていた赤き月が天空に現れるその夜だけは、世界はその様を変える。それは単に赤いだけではなく、本来目覚めるべきではないものを呼び起す。ドンガ。それは幾つかの世界では伝説と絵物語にしか登場することのない龍に似た魔獣。
　その翼はウバル（約60ｋｍ）の距離を瞬きの時間で飛び。
　その牙はガルラ（最も硬い鉱石）を砂糖菓子のように噛み砕き。
　その爪は千の屈強な兵士をひと裂きにする。
　ゆえに災厄の使者と記されることもある。

　ドラグナが意味する血の月とは、その真円の色があたかも血に染まっているかのように見えるのみならず、それに導かれて地上に姿を現すドンガにより流された数多の血潮も意味する。
　ひとはドンガを畏れ、それゆえドラグナを畏れる。
　唯一の救いは、ドラグナが天空に輝くのが1年のうちたった一晩のみであるということ。そしてその一晩は、遥か古より伝わる暦により判明していること。ならば、ひとはその一晩だけ、扉を固く閉めて身を潜めればよいのだ。旅人もその一晩だけは樹の陰、岩の陰で息を殺しさえすればよい。些末な旅の遅れは命に代えられるものではないのだから。


「…というわけで、ドラグナの晩だけは決して出歩いてはいかんのじゃ」
　長く白い顎鬚を片手で弄びながら老人は話す。老人の周囲を取り囲むように子供たちは座っている。子供たちは皆、見たこともない怪物の姿に思いを馳せ、畏れと、次に語られるであろう物語への期待をその瞳に宿し。
「ちょっとまってくれよ、じーちゃん」
　一人の子供が声を上げた。その子は、老人を囲む子供たちの中でも一際幼い少年。
「ふむ、どうしたかねぼうや」
　老人は優しげに声を掛けた。老人は、その瞳に光を失って久しかったが、声を上げた少年の方へ正しく顔を向けた。対する少年はというと、やや気圧されたのか一瞬身を縮こまらせたものの、負けじと老人を睨みつけた。
「なあじいちゃん。そのドラグナの夜ってのはだれも外出ちゃいけないんだよな？」
「そうじゃ。昔からの習わしじゃからな」
「だったらよぉ、だれがまじゅうを見たんだよ」
「ふむ…」
　老人は顎髭を擦りやや考えた。
「ぼうやはこの話を聞くのは初めてかの？この話には続きがあるんじゃが…居眠りでもしておったかの」
　少年は自分が小馬鹿にされたと思い立ち上がった。
「ちがわい！何度も聞いてるっつの。戦士の話だってきいてるさ、寝てなんかいねーぞ！」
「ふむ、そう…戦士。試練と戦士の物語へと続くのじゃ。それを知っていてなお何を問うかね、ぼうや」
　少年は老人の優しい問いかけに心折れそうになるが、心を奮い立たせた。
「だってよう…おかしいじゃん戦士だってほんとに見たかどうかわかんないじゃん！うそついたって誰もっ…」

　ごいん！！

　いきなり頭に激しい衝撃が加わり、その場にうずくまる少年。
「いってええええええええええええええええええええ！！！！！！！」
痛む頭を押さえながら振り向くその背後には、長身の女性が立っていた。拳を握りしめて、その表情は怒りに満ち溢れて。
「あんたなに馬鹿なこと言ってんのよっ！！」
　彼女の怒号は空気を揺るがした。その場にいた全員、いや長い顎鬚を弄る老人を除く子供たち全員の表情が一斉に怯えに変わる。
　中でも頭を思いきり拳骨で殴られた少年は一際怯えている。
「ひぃっ…ね、ねえちゃんっ………！？」
　目には大粒の涙を浮かべ、頭上を見上げ今にも泣き出しそうな声を絞り出した。
「戦士を馬鹿にすんなって何度言ったら分かるんだいっ、このくそ餓鬼が！」
　少年にねえちゃんと呼ばれた長身の女性は再び拳を振り上げた。
　今まさに拳が振り下されんとしたその時、その様子を笑みを崩さぬまま眺めていた顎鬚の老人が救いの手を差し伸べた。
「まあまあ、よしなさいジジス。まがりなりにも伴侶を持つ者が、そのような言葉はあまりよくなかろう」
「あ、長老っ…これはその…って、まがりなりにもっていうのはあんまりじゃぁ…」
老人の優しい諫めに顔を赤らめ拳を下したが、まだ怒りのやり場に困っているようにも見える。
「ほっほっほ…まがりなりにもではなかったな。あのお転婆娘が伴侶を持った時には長老衆皆で驚いたものだ。今では立派に妻としての務め、果たしていると聞くぞい」
「そ、それはあんまりですっ…」
　紅潮させた頬をさらに紅くしつつ、なんとか反駁しようとするも、どうにも相手が悪いことを理解している様子。
　それを見た少年は足元でニヤリと笑みを作った。ジジスはそれを見逃さず、、逃げる間もなく少年を片手で掴み上げた。
「長老、このくそ…じゃなくてこの子はちゃんと叱っておきますので！今日はこれでっ…」
　そう言うなり踝を返そうとした。文字通り首根っこを掴まれた少年は途端、悲しそうな、救いを求めるような目になった。
「まあまあ、少しだけ待ちなさい」
　長老は片手をゆっくりあげてそれを制した
「でも……………はい」
　少年が恐れるこのジジスという名の長身の女性も長老の言葉には従うようだ。しぶしぶ少年を下した。いや正確には容赦なく手を離し、落とした。どすんと鈍い音がして、少年は尻したたかに打ちつけた。頭と尻、両方の痛みに歯を食いしばって耐えようとする様は滑稽だ。

「ぼうやよ、ぼうやの姉、ジジスが戦士であったことは知っておるかな？」
「え…？？」
　戦士、その言葉に、少年にのみならず老人の周囲で事の成り行きを見守っていた子供たちの視線が一斉に長身の女性…少年の姉に注がれた。
　ジジスはその視線に対し、やや照れくさそうな表情を浮かべた。
「やめてください、それはもう10年も前の話ですし。それに今は…」
「立派な旦那もおるしの。戦士ジジスもひとの妻とは、世の中何があるか分からんものじゃなぁ」
　笑う長老。顔を赤らめつつも苦笑いしか返すことのできないジジス。
　少年は、二人の顔を見比べて何が何だか分からない様子だったが、その場の空気に耐えられなくなったのか、声を上げた。
「うそだ！ねーちゃんが戦士だったなんて！」
「なっ…！？」
　いきなり否定されたジジスの顔が、次の瞬間怒りに染まる。それを長老が再び制した。
「まあまあ。ぼうやはなぜ、ジジスが戦士ではかったと思うんじゃ？」
「それは…」
　言葉に詰まったのも一瞬、伏せた顔をすぐに上げ、答えた。
「だって、ねーちゃんドンガが怖いっていつも言ってるんだぜ！ドラグナの晩は絶対に外に出ちゃいけないって！戦士だったんなら…ドンガなんて怖くないはずじゃんっ。そうだろ、じーちゃん」
「そ、それは…」
　返答に困るのか、申し訳なさそうに長老の顔を見つめたジジス。対する長老、それに応えるようにうんうんと頷いた。そして少年に向き直る。
「ふむ、実にジジスらしいの」
　全てわかっている風な長老を見て、なお不機嫌になる少年。
「じーちゃん、なに言ってんのかわけわかんないよ！」
「こらっ、長老に向かってなんて口を！」
「ほっほっほ、元気があってよいことじゃ。まるで昔のジジスを思い出すようじゃなぁ」
「待ってください、あ、あたしはこんなにっ…」
「こんなに、なんじゃ？言いたいことがあるのなら聞いてやるぞい？のうジジス。なんならワシがかわりに話してやってもよいぞ。さぞ子供たちも喜ぶじゃろうて、のう」
「や、やめてください！」
　長老は明らかに面白がっている。
「ふむ、ジジスはともかく旦那殿の名誉にも関わりかねぬ話であるしな。ここで話したことが原因で別れでもしたら一生恨まれかねんわい。」
「そんなこと…しませんっ……………たぶん」
　消え入りそうな声で反論するジジス。それで満足したのか、長老は顎髭を弄びつつ少年に向き直った。
「昔話に花を咲かせるはいずれ、子供たちのおらぬ時にでもしようかの。さて、ぼうや」
「な、なんだよ」
「ぼうやは、ドンガを見たいのかね？」
「見たい！」
　即答した少年の瞳が輝いた。
「ならば…」
「長老！」
　ジジスは慌てて長老の言葉を遮ろうとした。しかし長老は気にも留めず続けた。
「戦士になればよい。ドンガをその目で見ることができるのは、ドラグナの夜ドンガを狩ることができた戦士のみじゃからの」
「オイラ、戦士になる！」
　迷いのないその声に満足そうに頷く長老。溜息を吐き、諦めの表情を浮かべた姉。
「ふむ…良い顔になったな、ぼうや。名を何という？」
「チャチャカ！」
「ならばチャチャカ。戦士への道は厳しいぞ、耐えられるかのう」
「もちろん！おいら何でもやるぜ」
「よい返事じゃ。その言葉、偽りはなさそうじゃな」
「あったりまえだいっ、オイラうそは大っ嫌いだ」
「では…あとの事は、戦士ジジスに任せるとしようかの」
「え…？」
　一瞬意味が分からず、しまった！と思った時にはすでに時遅し。チャチャカは再び文首根っこを掴まれて宙に浮いた。目の前には姉の顔。
「ちょ、まっ…え…うそだろっ」
「さぁてチャチャカ、男に二言はないわよねえ。」
　姉の顔が、諦めから笑顔に変わった。

　身長さえ気にしなければ明らかに美人の部類に入るであろう姉の笑顔は、チャチャカにとってはジャボール（悪魔）の笑みに等しい。見る間に青ざめる彼の顔から、これから彼が耐えねばらなない日々の苦難が容易に想像できた。
「ぎゃーっ、助けてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ！！！」
少年は大声で叫び助けを求めたが、それに応えるものはなく、変わらず姉は笑顔のまま。
「さ、行くよ。それじゃ長老、おっ邪魔しましたー♪」
ジジスは背を向け颯爽と立ち去った。悲痛な叫びを上げる小さな少年を片手で軽々と掴んだまま。



「さて…そろそろ続きに戻ろうかの。皆も知っている通りの、戦士の物語じゃな」
　ようやく静けさが戻り、長老は変わらず優しい口調で語り始めた。
　子供たちも一人、また一人と長老へ向き直り、ややあって全員の視線が長老に集まった。そこにはかつてなかった不安の表情が浮かんでいる。
　戦士の物語とは、ドラグナの夜に行われる試練の話。魔獣ドンガにたった一人で勇敢に立ち向かう者たちの伝説…であった。しかし今、長老を囲む子供たち、少年少女にとってはもはや伝説ではない。
　彼等は見た。かつて彼らにとって伝説であったものを、その目でしっかりと。そして、その伝説の戦士に本気で怯える小さな小さな少年の姿を。
　長老は少しだけ、意地の悪そうな笑顔を浮かべた。

「ふむ、皆に一つ尋ねようかの」
長老は続けた。
「この中に、戦士になりたいものは…おるかの？」
子供たちは一斉に首を振った。無論、横にだが。
それを見て、長老は笑みを浮かべたまま大きく頷いた
「ほっほっほ、ちと薬が過ぎたか。戦士ジジスの伝説いまだ健在なりといったところかの。まあよい。では続けようか、強く、恐ろしく、そして優しい戦士たちの物語を」





「…すっげえ嫌なこと思い出しちまった」
小さな人影はそうぼやくと、思い出したことを振り払うように頭を左右に振った。そして赤く染まる地平の、遥か先の一点を睨む。
「出てくるんなら早く出てきてくれよ」

ひるひる忙しなく動く耳は、どうやら相手の言葉の微細な違いを聞き取ろうとしている様子。
サラマンダーの言いたいことは通じなかったらしく、特に反応を示すことは無かった。

途切れた言葉の続きを促すでもなく、ほうほう、と携帯電話の方を覗き込んだ。
興味はあるが操作方法その他が分かる訳でもなし、そのうちすぐに飽きて姿勢を正したが。

パタパタ、自慢そうに尻尾を振った。

エミリーの住んでいる世界とは結構社会の仕組みも違うようだ。自分の知っているモノとの違いには興味深そうに耳を傾けて…時々微かに動いている。自分で動かせるのだろうか。

恐るべし一揆。レジスタンスは常にお財布の厳しい環境なのだろうか。

そういう彼女の表情はどこかひきつっているというか、出来るだけ視線を下に向けないようにしている。