あまりに目まぐるしく変わる日常に、慣れてしまって。


ほんの少しだけ、忘れそうになっていた。


あれから、どれくらい過ぎたかなんて、分からなくなりかけていた。


けれど、でも——




足音が、響く。


いつ来ても、何処を見ても、ほとんど変わり映えのしない地下牢は、それだけで陰鬱だと思う。
薄暗くて、黴っぽくて、湿っている。息が詰まりそうな気がして、殊更深く息をした。
あまり長居はしたくないなと、何度も思ったことを浚い返しながら、足を進めていく。
早く、イェジが見つけよう。それだけを考えるようにして。


——事の発端は、休憩中。


先の戦闘で汚れたフレイルの手入れをして、少し荷物を整理したり、進む先を話し合ったり。
一息ついたところで、ふと、イェジが居ないことに気付いた。
彼が、ふらっとどこかへ行ってしまうことは、よくあることで。
けれど、こうやってパーティで動いている時に、長くいなくなることはない。
なにか、あったんだろうか。
皆に一言断ると、私は、イェジを探しに出た。

この辺りが安全なことは、先に確認してある。それでも、此処はさっきまで戦っていた場所だ。
不意打ちがない、とは言えないと思う。
イェジも、それは分かっているはずだし、恐らくそこまで離れた所まではいかないだろう。


そう思って、休憩地点の周囲から探し始めて——そうして、もう何分経ったろうか。


白い子狐の姿どころか、ねずみ一匹見当たらない。
一度立ち止まって、辺りを眺める。石壁に、どれも同じようなつくりの牢が、均等に並ぶ。
地下牢、というくらいだから、前王の時代には囚われていた人もいたはずで。
けれど、牢に人が居た跡は、ほとんどない。
この一揆の混乱でいなくなったのか、あるいはどこかへ移動させられたのだろうか。
そんなことを考えながら、一通り、見回してみたけど、あの小さな白い姿はどこにもなかった。


「どこに行ったんだろう……」


呟いても、微かな反響が返る以外、答えはない。
もう一度、辺りを見渡してから、先の方へ目を向けた。
休憩場所からは少し離れ過ぎたけれど、この先は確か、小さな看守部屋が一つ、突き当たりにあるっきりだ。
そこまで行って、部屋を改めたら戻ろう。もしかしたら、入れ違いで先に帰っているかもしれない。

何してンだ、ばァーか。

そんな幻聴が聞こえた気がして、ため息を一つついた。
歩き出す。


　*　*　*　*　*


——おかしい。


突き当たりの、看守部屋。
大人が四人も入ったらいっぱいになってしまいそうな、小さな部屋だ。
以前入った時に見たのは、粗末な椅子と、机、その上にまだ、使えるランプ。
何かを置いていた棚がひとつ。あと、空のビンがいくつか。
簡単に、思い描けるくらいの簡素な部屋だった。
そこに、イェジがいないか確かめようと、近づいて気付いた。

僅かに、扉が開いていた。
部屋の中は明るいのか、隙間から黄みの強いオレンジ色の光が、すっ、と床に伸びていて。


そして——その向こうに、人の気配がする。


気配は、ぼんやりとしていて、あまり良く分からない。
けれど恐らく、ひとりか、居てもふたり、だろう。多くはない。イェジよりも大きい、人の気配だ。
息をひそめて、感覚を研ぎ澄ませる。
イェジの助けがあれば、扉から十歩以上離れたこの距離でも、もう少しはっきりとわかるだろうけれど。
仕方無しに息を潜めて、足音を抑えて近づく。

まだ兵士が潜んでいたのだろうか。もしくは、あの司教がいるのだろうか。
いや、司教ならこんなところにいるわけがない。頭の中の地図と歩いてきた道のりを照らし合わせる。
ここは、前に戦った地点からそう遠くない。
逃げ場所にしても、私にも覚れるほどの気配を外部に漏らすような迂闊さは、あの司教からは感じられなかった。
では、兵士だろうか。その可能性も、低いと思う。
自分達の他にも一揆参加者は此処を通ったはずで、見つからないで居るのは至難の業だ。
私よりも鋭い人なんて、たくさんいる。見つからないわけが無い。
なら、誰なのか。

もとより、戦う気はない。イェジが見つかれば、私はそれでいい。
一目確かめて、気付かれないうちにそっと離れよう。
そう決めて。

扉の隙間から、覗き込んだ——


「え……？」


暗い室内。机の上に置かれたランプに火が灯されて、部屋を明るく照らしている。
そして、光に、浮かび上がるように、確かに一人、そこにいた。
背中に長く垂れる、紫がかった銀の髪。その流れから、頭の天辺に突き出た獣の耳。
東風の衣装。端を紅く染めた薄手の首巻き。腕や足に巻きつけた白いさらし。
思わず、声が漏れたのは、驚きもあったけれど。

何より、その姿には、見覚えがあったから。





「イェジ」


扉を開けて、そう呼んだ。
声に、部屋の中に居た人物が振り返る。
私を見る瞳は、夕日よりも濃い橙。瞳孔の細い、獣の瞳。
首に巻きついた黒銀の鎖。腰に巻きつけた白い毛皮の腰巻。
堂々とした体躯は、私の背を優に超え、狭い部屋をいっそう狭く見せていた。


「あァ？……なんでェ、テメェか」


目を眇めて、そう呟いたのは、子狐のはずの——イェジだった。
いや、違う。


これが、彼の、本来の姿。


一年と少し前。
あの日、初めて出会った時に、彼はこの姿で、あの場所に。


「……んな呆けた顔してンなよ、脳味噌足りねェ馬鹿に見えンぞ」


からかいでもするように、そう言ったイェジの言葉で、我に帰る。
いつもよりも愉快そうな顔で、こっちを見ていた彼に、問いかけを口にした。


「……、元に、戻れたのか？」
「まァな。こないだのブリギット、だったか？　あいつと会ったおかげで、変化できるくらいにァ戻ったぜ」


力を失った後、イェジは、私が一時的に契約したエンブリオに触れて、
力の一部を取り込むことで、少しずつ力を取り戻していた。
それは知っていたけれど、こんなに戻るのが早いとは思わなかった。
肩を竦めて、イェジは続ける。


「つっても、元にはまだまだ足りねェがな。この姿を維持すンにも、今は数分と持ちやしねェ」


すっと、腕を上げる。ランプの光に、指先がほんの少し透けて、向こうが見える。
彼が言うように、まだ万全でないのかもしれない。
出会った時も、万全であったとは言いがたかったけれど。だからこそ、彼は……

頭を振る。すぐに、考えが逸れてしまいそうになる。
とりあえず、こうやって人の姿を取れるようになった。それは、素直にすごい進歩だと思う。


「……良かった。戻れるようになったのなら、あの姿でいるより出来る事は増えるんだろ？」
「おう、まァな」


にい、と口端を吊り上げて、イェジは笑った。
その顔に、陰りはない。
彼は、思い出さないのだろうか。この風景を、自分の姿、を見て。
銀の髪が、首巻きの裾の紅が、もっと色濃く染まっていた、あの……


「じゃあ、早く戻ろう。そろそろ、休憩も終わるだろうし、皆に心配掛けないうちに」


気付かれないように、身を翻す。
早く、皆のところに戻らなくては、という気持ちが強かったのもあったけれど、何より——思い出してしまいそう、だった。
それくらい、良く似ているんだ。

ここは、あの日の、あの場所と。

なのに。


「……そういや、あン時も、ンな暗くて湿っぽい、陰気臭せェ場所だったなァ」


気にもしない様子で、イェジが呑気にそう言った。
微かな衣擦れの音。立ち去ろうなんて気配は微塵も感じられない。
聞きたくない。けれど、足は動かなかった。


「あれから一年と少し……二月、くれェか。早いもンだ」


まァ、ン千年生きてる俺様にとっちゃあ些細なもンだがな。
楽しそうに、そう言って。
聞きたくない。耳を塞いでしまいたかった。


「そう、あれからだ。テメェと、俺が、契約を結んだ日から、一年だ。そうだよなァ、ミハウ？」
「っ！」


振り向いた先、イェジは——まったく、笑っていなかった。
ただ、私を見据えている。


「お前、忘れてねェよな。契約も、あいつの願いも」
「……忘れるわけ、ないだろ」


答えを返す声は、かすれていた。
忘れるわけない。忘れられるわけもない。
あの日のことを、契約に至る経緯を、——願いを、忘れられるわけがない。


「そうか。ンなら、いい」


ぽつりと。そう言ったイェジの姿が、かすむ。
もやが掛かったように、イェジの姿が薄れて、消える。
限界がきたんだろう。


「……おイ、いかねェのカ？」


少し視線を下げれば、今となっては見慣れた子狐の姿のイェジがそこにいた。
三つの尻尾を揺らして、大きな橙の目が私を見上げている。


「……いや、行くよ。早く戻らないと心配、してるだろうし」
「なラ、とっとト行けヤ。俺は寝る。乗セろ」
「、はいはい」


小さな体を、拾い上げる。
いつものように左肩に乗せれば、器用にバランスを取って座った。
踵を返して、部屋を出る。



——ランプの火は、いつの間にか消えていた。

二人の姿が見えれば、ぱっと表情を明るくして。

それから、あ、と小さく声を上げて、トーコへ目を向ける。

おもむろにイェジの頭に手を伸ばし、ふさふさの頭を撫でようと

反芻するようなぞるよう、その言葉を繰り返す。

問い詰めるわけでもなく。
ただ疑問を投げかけた。

　立ち塞がる敵は、いつもより一層、異形さが際立っていた。思わず身構える。
　それから、ふるふると首を横に振った。

　イヌワシは羽ばたき、杖に括りつけられた結晶がきらりと輝いた。