僕の座ったこともないような大きなふかふかの椅子、細工の綺麗な机、ふんわり良い匂いがする紅茶。
　一番最初に思ったのは、こんな贅沢な生活をしてるやつが本当にこの世に存在するんだな、ってことだったっけ。同じ男爵領とは思えない活気のある生活雑音、行きかう人々の整った身なり、美味しそうな食事の準備の匂いがして、春になれば庭中の花壇がつぼみを膨らませる。
　イベール男爵家は僕にとって、まるで遠く離れた国のような場所だった。

　僕と一緒に屋敷に引き取られたニューロは三人。
　昼間は他の子たちと同じように、下働きの雑用をする。
　夜になる。眠っている子たちを起こさないようにと老婆に起こされて、ときどき、僕は男爵の部屋へ行く。

　男爵は僕に、さまざまな知識を教えてくれた。
　読み書きもできなかった僕には何故か、古いニューロの言葉が与えられて、僕は文字の読み書きも出来ないけれどニューロの言葉だけはなんとか、勉強に支障がない程度に読み書きができるようになった。
　古い絵本の読み語り、詩歌の芸術性、足し引きや計算の仕組み、西方領に敷かれている治世の構造、メルンテーゼにおける元素と自然の法則。理数学、社会学、人文科学。

　農業とエンブリオの契約によって成り立っているプランタン西方領には、情報を共有するための手段——メディア、と男爵は呼んでいる——が乏しい、らしい。
　この、メディアに乏しい西方領において、大きなメディアの一つが『教会』だった。
　教会は各地に設置されていて、それぞれの村へのネクターの配給や、重要な情報を共有するための布告を出してくれたり、生活に必要な知恵や技術、最低限の学問、季節の暦を教えてくれたりする。
　公共事業、というらしい。土地全体が豊かになるために、公爵が私財を投げ打って様々なものを提供してくれること。

　——どれもニューロの言葉や口頭での授業がほとんどだったから、もちろん、普通の言葉で他の人と同じように活用するのは難しかったのだけれど（だから、僕は普通の地図を読み解くことすらできない）
　その代わり、普通の農民なら知らないままでも生活できるような知識を、たくさん教えられた。

　どうして男爵がそんなことをしたのかなんて、分かるはずもない。
　男爵の真意を知るよりも早く、僕は箱を託された。


◇　◆　◇


　僕は知っている。
　間違いなくあの時、習ったのと同じ形式だった。

　本当は、あんな勉強大っ嫌いだったよ。
　意味なんて分からない、僕はただ唯々諾々と男爵の言うことを聞いていただけだ。間違えたら手の平を出して、鞭で叩かれる。勉強が上手く行くと、お菓子や食事にありつける。
　本当にただそれだけだった。
　あの男爵が何を思ってそんな事をしていたのかなんて、考えたこともない。

　ずっと他の子と同じにしてなさいって言われてたんだ。
　髪の毛も目の色も変えて、魔法のリボンをかけて、鍵の言葉をかけて、なんにも知りませんって顔をして。
　だから、本当に生まれて初めて、僕以外で同じことができるやつに出会ったのだ。
　けれども、あいつは、ヴェルトは、少しも嬉しそうな顔なんてしなかった。

　目をそらす。悲しげに少しだけ目を伏せる。自分が間違いだったのか、みたいな顔をする。

　ぐんにゃり、ヴェルトの姿が一瞬歪む。
　辺り一面を覆っていた影が大きく揺れて、影がゆっくりとヴェルトに向かって収束し始める。
　——通信回線が、閉じるんだ！

　見送って、本当にいいのか？
　だってさ、
　だって、僕はあそこにアクセスできるんだぞ？

　やり方は知ってるよ。
　ただ、やっちゃダメだって言われて、隠さないといけないって言われてたから、僕は今日までちゃんとリボンをして、あの歌を歌わないようにしてきたんだ。

　母さんが僕にリボンをする。
　父さんが僕の頭をなでる。

　お婆さまが何度も僕に言い聞かせる。

　慌てて首の後ろに手を回して、三つ編みの先を手繰り寄せる。
　お呪いで縛ってあるリボンは、解きたいと思った時しか解けないから、ちょっと引っ張ってやればすぐに解けた。
　あとはパスワードを打ち込むだけだ。








　トムのやつ、よくこんな歌を暗唱してたなって思うよ。
　今時、こんな歌暗唱できるのなんて、僕くらいしかいないだろうって思ってたからさ。
　だから、ちょっとだけ、同じことが出来るやつに会えて、本当はちょっと、嬉しかったんだ。








　パスワード確認、ロック解除。
　頭の中で習った通りに命令文を並べる。文法、綴り、意味。命令文の候補はアイスオーブの中に入っているから、アイスオーブへのアクセスだけ順番通りに。アイスオーブは堅物の頭でっかちだ。僕がちゃんと、マニュアル通りに話しかけてやらなくちゃいけない。

　エントリーヘッダ認証、通信回路へのアクセス。
　まだ閉じないでくれ、僕は、

　僕は初めて、僕と同じやつに会ったんだ。


◇　◆　◇





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◇　◆　◇


　空からの景色なんて、生まれて初めて見たから、一瞬、どこがどこなのか分からなかった。
　ただ、周りには何にもなくて、僕は落下していて、下には……下にあるのは、これ、街……なのか？
　街？
　違う、これ、大きな……お屋敷か？

　そもそも、落ちているのは僕、なのか？


◇　◆　◇





◇　◆　◇


　人の声がする。怒号、悲鳴、嘆願、それから助けを求める声。

　3回目の交戦が終わって、西方領の兵士たちが蜘蛛の子を散らすように退却していく。
　『僕』がいるこの場所は公爵領の、公爵家と呼ばれているようだった。その真上で、身体を丸めるようにして『僕』はじっと耳を澄ましている。

　指揮官を失った西方軍の指揮系統は、完全に混乱しているようだった。
　攻撃も、ほとんどが軍としてのまとまりを持っていない。指揮官がいないから、全体として動くことができないようだった。
　『僕』は硬さには自信があったけど、攻撃手段はあまり持っていない。
　だから、彼らに対抗するために、新しい子供……アイシーマニピュレータの量産体制に入らなくてはならない。

　でも、なんだか上手く体が動かないんだ。
　ここでは、ルールが違うのかな？

　検索してみる。
　ここは『元素の世界』メルンテーゼ。元素の理に、異世界からの異物である『僕』たちは微妙に適応して切れていないらしい。








　ちょうどいいや、これで行こう。
　アイスオーブが急速な回転を始めて、周囲の気温が急速に下がり始める。『僕』の身体は巨大すぎて、寒さに身じろぎするだけで下に潰れている公爵家の残骸が軋んだ。
　養分が必要だった。幸い、メルンテーゼの土壌はとても肥沃だから困ることはなさそうだ。『僕』は安心して地に足をつけて、栄養をもらいはじめることにした。
　少しずつ、分け与えるように丁寧に、子供たちのためのアイスオーブを精製しはじめる。


◇　◆　◇






　遠くから声が聞こえる。
　誰の声だろう。聞いたことがない人間の声が複数。『僕』はとても耳を……アンテナを研ぎ澄ませていて、そうか、これは通信傍受だ。『僕』は、情報を集めている。人間から、西方領から、……『僕』を追いかけて落ちてきたニューロたちから。





　ニューロたちは、とうとう、西方領の人間に『救援要請』を出すつもりだ。
　分割世界間の条約で、救援要請を出した世界は世界線を超えて救援を受ける権利を得る。
　ニューロと西方領が、手を組んで『僕』の元へやってくる。





　アイシーマニピュレータの生産速度を上げなくちゃ。
　ニューロの超高度テクノロジーは、『僕』が5年かけてもあいつらの主人を滅ぼすので精いっぱいだった。デミウルゴスシステムでどんどん増えていくあいつらを滅ぼすには、沢山の子供たちが必要なのだ。







　ねぇ、お願いだよ子供たち、『僕』を守っておくれ。
　あいつらが『僕』を滅ぼしにやってくる。『僕』は何も悪くない、ただ、ご飯を食べて生きていたいだけなのに。
　ねぇ、助けておくれよ子供たち。
　『僕』の味方は、お前たちしかいないんだ。

　他に誰も、『僕たち』と同じやつらはいないんだ。

　完成したアイスオーブから、順番に起動がはじまる。
　黒いコールタールのような液体じみた影から、目覚めたアイシーマニピュレータたちが動き出して、『僕』の方へと命令を待つようにぐるぐると宙を舞う。
　顔のない黒い影、口のようにぽっかりと空いた赤い空洞、一対の異形の腕と、一対の蠅の羽根。

　これは誰だ。
　僕は『僕』なのか？
　アイシーマニピュレータって呼ばれるこいつは、ネザーなのか？
　この大量のネザーは、『僕』が造り出しているのか？


◇　◆　◇


　僕は、

　僕は、魔王なのか？
　僕は、『ウィンターミュート』なのか？



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※PTMのENo.1741・トムをお借りしました。

小さく息を吐き出し、首を傾げる。
されど、続くノエルの言葉を聞けば、目を丸くして。

吐息を漏らす。

生かされているだけで、と言葉を落とす。

それはもう存在しないものだけれど。
あるいは、存在しないものだからこそ、安心して。

ポンポンと少年の頭を叩いてみせる。

ずいっと上半身を乗り出すようにして問う。

やや複雑そうな表情を浮かべている。