ぱちり、と音を立てて開いた瞳に、日の光が滲む。
目元にべたつく目脂を拭う。
どうやら、随分と長い時間眠りながら過ごしていたらしい。
空の青は既に澄み渡り、太陽は自分の真上からさんさんと陽光を注いでいる。
—昼時か。

そう言いながら、顔を覆う。
こんなにも遅い目覚めを迎えたのは、いつ以来だろうか。
早朝から花の世話をする生活の頃は勿論、今の生活に入ってからもこんなぬるい陽光の中目覚めたのは、初めてだ。
ここに今、国王軍が訪れていたならば、意識のないうちに打ち首にされていた可能性もあったろう。
アジュガは、目覚めを迎えることが出来た幸運をかみ締めた。

伸びをひとつ、と、同時に体の痛みに気づく。
後ろを振り返ると、川原の石が広がるばかりで、随分と酷い場所で寝ていたのだと気づく。
一揆に参加してから、確かにあまり十分な寝床は確保できなかったが、これは今までで最悪だ。
とりあえずと、寝起きの慣習で、まじないのかかった服をぽんぽんと二回叩いた。
妖精のまじないは、その生地に染みこんだどんな汚れも綺麗さっぱり、消し落としてしまう。
彼女の手袋へ、スカートへ飛び散っていた、まだ古くない血の痕すらも。

足元へ視線を落とすと、サンインが気持ちよさそうに眠っている。
彼女の寝ている箇所には、簡易な寝床が用意されているようで、アジュガは安心した。
カリンカランかセレステが寝かしつけたのだろう。
しかし、その二人が今、何処にも見当たらない。

襤褸い毛布の端をつまむと、足元で寝そべる少女へかけなおす。
それを分かってか分からずか、サンインは気持ちよさそうに丸まった。

何故、皆はいなくなってしまったのだろう。

そもそも、いつからいなかったのだろう。

エンブリオたちがいなくなってしまった状況すら、よく、思い出せない。

ひどく意識が混濁している、そんな気がする。

今いるキャンプには、確実に訪れている。
ここはカリンカランと自分が口論になる前に、拠点としていた場所だ。
自分が使っていたコップも薬缶もあるし、この風景は見た覚えがある。
そのあと、自分は怒りのままにカリンカランを突き放し、とにかく走った。走って走って、小川を抜けた。
そして迷い込んだのは兵舎で、そこで一人で兵士たちと一戦を交えることになった。
そこまでは覚えている。
—そこからは？

そもそも、カリンカランと喧嘩をしてしまった以降の記憶が、自分の白昼夢だったのかもしれない。
自分はカリンカランと口論なんてしていないし、第一、援護ばかりしていた自分が、一人で複数の相手をさばききれる筈がない。
そもそも、長くベルエトワールを自分の心臓として認めてきたカリンカランが、それを否定するような言葉を言うわけはない。
全部、自分の思い込み。
そう結論付けると、不思議な安心感が沸いてきた。
変な体験をしたものだと、サンインを片手で撫でつつ、バッグの中を整頓する。

そこにあったものは、兵舎の兵士たちが落としていった、幾ばくかの硬貨。
そして代わりに、持ち歩いていた食料は、以前に見たときよりも確実に減っていた。

さあっと血の気が引く。

あれは、あの体験は、白昼夢などではない。
確実に自分の身に起きていた現実だったのだ。
カリンカランとの諍いも、兵舎での戦いも、そして、その後の記憶がまるっきり抜け落ちていることも。
自分は一体何をしていた？どこにいた？どうやってここへ戻ってきた？
自分の空白を示してくれる人物は、どこにもいない。

青い顔をしながら、バッグの中を見つめたまま固まるアジュガの肩を、握る感触があった。
ひんやりとした子供の手、握力の強い指。
アジュガが振り返ると、先ほどまで寝息を立てていたサンインが、あくびをして伸びているところだった。
自分ひとりという状況が打破され、僅かながら少し安心感が戻る。

ぽんやりとした瞳が、アジュガの方を覗き込む。
まだ焦点が合っていない、眠りの世界から脱しきれていないようだ。
ごぢごしごしごしと、きつく目を何度も擦りながら、キョンシーは少女の方を見つめる。
徐々にピントが合い、自分に声をかけている人物が誰だったのかが分かるようになる。
日よけの帽子と、白藤色の長い髪、そして不思議な色をした瞳、花の香り…。

ぱちぱち、と二回瞬きすると、急にその瞳を見開き、バチンと一回手を叩いた。

そしてそのまま、甘える猫のようにアジュガに飛びつき抱きつく。
力が強いので、されている方としてた獲物を締め上げる虎のような感覚だが、その表情は喉を鳴らすように甘えきっている。
それをアジュガは受け入れ、優しくその髪を撫でる。
それを繰り返しながら、彼女の発言を反芻していた。

サンインは「戻ってきた」と言った。
つまり、自分には居なくなっていた時間があった…？

夢遊病の類は患っていなかった筈であるが。
ただしそれも、今の状況を考えるとはっきり絶対無いとは言い切れない。
実際に自分には、意識が無いまま移動している時間があった筈なのだから。

夕方…。
兵舎で兵士たちと戦っていた頃には、既に夕刻を過ぎていた記憶がある。
つまり、記憶が失われている時間には、一度もここに帰ってきていないことになる。
夜中から、昼間まで、およそ十二時間。—一体自分は、何をしていたのだ。

一人で悩んだところで出る筈のない問題に、アジュガは頭を悩ませる。
その眼前のサンインは、先ほどから落ち着き無く周囲をキョロキョロと見回している。
少しぴょんぴょんと跳ね歩いては、大きな石をひっくり返し、大声で誰かを呼んで回る。
アジュガもそれを少し不思議に思い、立ち上がってサンインの元へ寄り添う。
元気のいい死体ではあるが、普段ここまで落ち着きが無い様子は見たことがない。

アジュガがどうしたのかと問うと、出てきたのは不在の人物の名前。

アジュガは少し驚いた顔をしてみせた。
ここに残っているサンイン以外は、彼女の言う通り、皆自分を探しに行っている途中だと思ったからだ。
しかし冷静になってみれば、確かにこの状況で、カリンカランが不在なのはおかしい。
普段は子供のサンインを案じて、必ずカリンカランかセレステが傍に居たからだ。
サンイン一人だけで行動しているという状況は、見たことが無い。
となると、サンインの言う通り、カリンカランは昨夜まで彼女と共に居たのだろう。

ちくりと、胸が痛む。
彼女を罵倒し、口を利きたくないと言ったのは自分だ。
彼女は、それでも尚、自分とサンインのもとへいてくれていたのではないか。
そして、自分が目覚める前に、姿を消したのではないか。
—今更だとは自覚しつつ、罪悪感が身を襲う。

そんなアジュガの頬を、白い手がぴしゃりと叩く。
加減はされているようだが、叩かれた場所を少し赤くして、そこはぴりぴりと痛む。

そう言いながら、サンインはにっこりと笑った。
言葉の余り達者ではない彼女の、彼女なりの優しさが嬉しかった。
それでも、罪悪感はぬぐい切れない。
アジュガは、カリンカランの涙など、一度も見たことがなかった。
いつも気丈であり、自分の持たない様々な知恵を持ち、それを自分に伝えながら育んでくれた、母のような彼女。
その彼女を、泣かせるようなことを、自分はしでかしてしまったのだ。

ふいに、背後に人の気配を感じる。
サンインと共に振り返ると、やや遠方に見慣れた一団を見つけた。
自分を捜索していたエンブリオたちが帰ってきたのだ。
アジュガは自分の存在を示すように、一団に向かって声をかけながら大きく手を振る。
先頭を歩いていたセレステがそれに気づき、一度驚いたような顔をして、手を振り返した。

その中に、カリンカランはいなかった。


* * * *

そう言いながら、セレステは先ほど降ろした腰を、再び上げた。
サンインの話が本当なら、彼女たちは半昼夜自分を探しながら、歩き回っていたことになる。
それを示すように、それぞれの表情には疲労困憊の色が浮かんでいた。
アジュガはあわててそれを静止し、再び座らせようとする。

それを振り切るように、セレステは立ち上がる。
そして、頭上へと視線を向け、アジュガの目線と自身の目線を合わせた。

そのやり取りに、場の空気がほんの少しだけ緩む。
アジュガは団体行動の必要性に賛同し、全員で行動を共にすることに同意した。
昨夜とは違い、松明は持たずにぞろぞろと、川に沿って集団で移動する。

その際、ヴィツが一つのことに気づいた。
バタバタと動くサンインの足に飛びつき、彼女の尻へ、背中へ、肩へと上りあがる。
そのまま腕の方まで移動すると、軽くその手を掴んだ。
ヴィツが手を握ることは、会話の意思があることであると、その頃には既に仲間たちに周知されていた。
サンインは彼とはあまり関わりが無く、不思議だとは思ったが、大人しく彼を手に乗せたまま視線を合わせた。

言われてサンインは自分の足元を見る。
やんちゃに付き合わされる靴はすっかりと汚れていて、泥や枯れ草など、様々なものを付着させていた。
その中でも、普段見慣れないものが一つ、そこにあった。
何か液体が付着したような、赤黒い点が、二つ、三つ。

そこから、ヴィツが指示を飛ばすのは早かった。
サンインからセレステに飛び移り、一度拠点へ戻りたい旨を伝達。
セレステも戻るならば早いうちにと言うことで同意、一団は一度引き返し、キャンプへ戻ることとなる。
ヴィツには嫌な胸騒ぎがしていた。
なんとなく想像できてしまう虫の知らせのようなそれを、否定したい気持ちでいっぱいだった。
そして、キャンプへ戻ってから、アジュガとサンインが寝ていた辺りの、石をひっくり返す。
これを何度か続けて、見つかったもの。

僅かな血痕と、散乱した花の種と、胴体の存在しない妖精の蒼い翅。
カリンカランの翅。

ヴィツが静かに、種と翅を拾い上げる。



皆、それがどういうことかは知っていた。