フィガロ。

また久しぶりの、ふたりきりだ。
こんなふうに数度くり返してもまだ、お前とふたりになるのはどこか懐かしい。
……あの、最初のころは。
お前にもずいぶん手間をかけさせたような気がするね。

もうこんなところへまで来てしまった。
はじめはただお前ひとりを窓として、あの庭の外へも出られなかった私が。
もはやこれほど、どのような花も咲きはしないところへまで。

できることもずっと増えただろう。
覚束ないことも、あやしいこともあるだろうが。
それでも、お前たちの助けになるだろうことも、きっと、いくらかは。

フィガロ。

お前はどこへ行こうとしているのだろうね。
私は、どこへでも。
そこに窓があり、手を伸ばせるものがあり、足を向けられるところがあるのなら。
オルガはきっと、そこに掲げられ、高く翻るもののありさえしたなら——。

私は。

ありはしない場所から来たもの。
《ない》ことがあるどこかから——。

私の行くべきところは定まっている。
浮かび上がるべきは光のさなか。

けれどお前は。
お前はどこへ行くだろう？
どこへ行こうと望むだろう。
その両足を着けることを。
その手の差し伸べる先、ひとみを向け耳を傾けるいずれか。

それは。
どこへ行けるか、ではないよ。
果たして、どこへ行きたいのか。
どうしたいのか？
お前が、お前というもののたどり着く先に何を望むのか。
その、望みの望み。

そりゃあ、何もいますぐ答えることはない。
けれどもいつか、それが必要なときには。
どうか私に話しておくれ、お前のいちばんの願い事を。

私はそれをかなえてやりたい。

それがたとえば、何か、ひどくおそろしいことでも。
到底、誰にも話せはしないと思うことだって。
……オルガにさえ。

わたしは……だいじょうぶ。そう、大丈夫……。
花の香りは、まだ……している……あちこちの人の中に。

先に、進もう。

ううん、目ではなくても、別のなにかでも美しさを捉えることはできるよ。
肌で風を感じたりとか、花の香りを嗅いだりだとか。
輪郭がなくても、美しさは変わらなくそこにある。

……それもできない人がどうするのかは、僕にはわからないけれど。

だって……だって、僕は見たくないんだもの。
怯えた顔を見たくないんだ。
僕のすることで、そんな顔をさせたくなんてないんだよ……。

美しくあるはずのものを、僕が崩してしまうのは嫌なんだ……。

ええ。そのときから、私はどこか気づいていたでしょうね

よかったと、思っていますよ

私は、抗い続けると決めたんです。
だから、私は、乗り越えなければいけなかった

私は一度、私の本当を手放した。私から逃げた。
その時はそれが必要だったけれど、
私が暗がりに対面しようと思ったときには、もう、
逃げる必要はなかったんです

……
羨ましい、か。

生憎と、分けてやることはできないな。
それほど持ち合わせはないんだ。

黒は何にも染まらない。
真なる暗闇は照らす光を
すべて飲み込んでしまう……

途方も無い話だよ。
軒先を貸して母屋を……というのは
勘弁願いたいね。

……だめ。 おねがい。
そんなこと、しないで……お願いよ。

わたしは……知って、しまったから。
もう、知ってしまった……
自分がなにもかもを終えることよりも、ずっと、ずっとおそろしい、こと……

あなたに……もう二度と、手の届かなくなる、こと。

あなたが失われないのなら、それでいいと……そう、言えれば、いいのに。
でも、わたしは……いつの間に、そう、言えなくなって、しまったのか……

……どうしていいか、わからないの。
あなたが失われるのは、いや……なのに、わたしを、忘れないで、ほしくて。

わたし……あなたに食べられたって、きっと、構わない。
でも、だけど……

どうか、あなたの窓を、閉ざさないで。

望んでいて。 ひかりでも、なんでも、いいから。

本当は……わたしのことだって、忘れてしまっても、いい。

……きれいなひと。
届かない、夜の……いつかは明けて、消えてしまいそうな、ひと……

……わたし、あなたが、すき。

これ以上……あなたに、何を望むつもりも、ないの。
わたしはもう十分、あなたにたすけてもらった……返しきれないくらい、たくさん。

だけど……

だけどどうか、信じて。

わたしが、あなたをすきだってことを……うそに、しないで。

……そう、あの砂糖漬けを拵えてくれた娘さん達も、人斬りなんだね。
ああ、もう随分とのんびりしている私でもあなた達の名前だけは知っていた。
あなたが思っている以上に、あなた達は知られているかもしれないよ

私達がそれぞれの理由でここに来たように、あなた達もそれぞれの理由で誰かを襲うんだね。
そして、あなたも

その言葉を信じるのなら、あなたはどこまでもどこまでも、
様々なものを呑み込んで拡がっていくことになってしまうね。
あなたはそう大きな体には見えないけれど……外見と性質が一致するなんて限らないしね。
ここには見えないあなたが、今もどこかで何かを食べていると聞いても、私はあまり驚かないかな

もうひとつ聞きたいんだけれど……あなたが「そういうもの」であるのなら、
何かを壊して呑み込み、拡がることは、あなたにとって何なんだろう。
楽しいのかな、それとも逆に苦痛だったりするの？

死が？　滅びが？
さて……どうだろうな。
戯れる jouer とは、ふまじめ frivole ということだ。
それは準拠する m'appuye ものを持たないということだ。
美はない《かもしれない》 peut-être。
ある《かもしれない》 peut-être。
そこで滅び散るものは、そうだな、踏みしめるべき規範、
準拠すべき参照項、
決定的なものの否定……《決定的なものの死》だ。

そしてそれに、永遠に耐えることだ。

だからヤール、おそらくはあんたが言いたいように、
戯れに《始まりと終わり》が必要だってことは、ないと思う。
戯れはむしろ始まりと終わりの否定だ。
アルファからオメガへ至るという世界律に、
そうではない《かもしれない》と付け加える一言、
その一言が、光を殺害する。闇を殺害する。その絶対性を殺害する。
そこには死が要るだろう……ただし、戯れる主体の死じゃあない、
光と闇の、その本質的な在り方の死だ。

だからそれは、
……美の絶対性から遠ざかり、
相対性の迷宮に入り込むことでも、またあるだろう。

あんたの？
常闇のどこかに？

さて、ヤール……
それは難しい問いかけだな。
なぜというに、まずあたしは《もはやこれまで》なんて、
どんな時にも思いやしないつもりでいる。
息絶えるその一瞬前まで、手を進めるんだ。
たとえひとつだけでも……その一手を投げ出すことはしたくない。
死んだことはあいにくないから、
もし本当に命の危機の間際まで追い込まれたなら、
いったいどうだかはわからないがね。

次に、
眼だけじゃあない、あたしの全身をあんたに、
捧げるだなんて……《あんたのもの》になるだなんて、
そんなことはきっと、私にはできやしないだろう。
そういうことができないように、あたしはできているし、生きてきた。

……

もしヤール、
あんたがあたしを喰らいつくそうとするというなら、
そのあんたというものの深くへ取り込もうとするなら、

この銃を抜いて。

どちらかの命尽きるまで、
心底から戦うだろうがね。

フィガロでも同じことだぞ。
大人の男の面を被ったって、あんたの本性は幼い強欲だ。
あんたの父親面したおねだりを、
すべて赦すほどあたしは優しくない。

……わたしは、この世界から飛び立つことはできない。

けれど……君と滅ぶ気持ちにも、なれない