（……）

ずるり、ずるりと。
黒い塊が地面を這い回っている。時折ちらちらと光るものがある。よくよく見れば、それが無数の目であると気がつくだろう。目は現れては消え、泡沫のように弾ける側からまた生まれている。

（どう、しよう）

身体はもはや元の混沌に還りつつあったが、不定物0204、個体名「紫鯤」の意識は極めて明瞭だった。自分の形を見失った直後こそは酷い混乱を来たしていたが、己の正体を知ると言う最大の衝撃がいくらか和らいだ現在、その意識は以前と同レベルにまで回復していた。
だからライの思惑も、カメリアの正体も、スギとカメリアの会話も、自分の出自も、全て今の紫鯤には理解ができてしまっていた。
もう何もかもどうにでもなれと、自暴自棄じみた諦念を覚えた事もあったが、スギは紫鯤をどうしようもないお人好しとして造詣したらしい。仲間達やスギを放り出して逃げ出すこともなく、かと言って何食わぬ顔であの姿に戻ることもできず、無様な姿を晒しながら仲間達のあとをついて行っている。幸いな事に、仲間達はこんな姿の紫鯤でも、排斥しようとはしなかった。

（私、は）

ずるり。
物陰でひっそりと、紫鯤はその身を形作る。慣れ親しんでしまっていたあの姿。
おっとりした黒い瞳、緩く癖を持った長い髪。穏やかな童顔とはややアンバランスな、がっしりした長身。そしてそれを包むシャツやデニムを、紫鯤の黒い体は正確に再現する。
だが。

（やっぱり、駄目）

すぐさま紫鯤は倒れ込み、元の黒い塊へ戻ってしまった。
ここ数日の出来事を経て、紫鯤は自分の体の使い方を思い出していた。だからやろうと思えばすぐにでも「いつも通りの形」に化けられるのだ。
にも関わらず、紫鯤があの姿に戻らない理由はただ一つ。

（意味なんて、なかったじゃない）
（私は、私の意識は、ただのモルモット、で）

何もかもが虚構であったと知ってしまった以上、今更あの姿に戻る事に、紫鯤は意味を見出せなくなっていた。
守りたかった妹は赤の他人だった。
境戸紫鵬など元から存在しなかった。
紫鯤・ブランデンブルグ・波部は架空の人物だった。
ならば何故、あの姿でいなければならないのか。この姿だって慣れてしまえば便利なものだ。人間としての制約に囚われず、自在に動くことができる。

（でも、）

ここでもう一つ紫鯤には疑問がある。
それならばどうして、自分はこの意識を捨て去れないのだろう。
「紫鯤」というパーソナリティは境戸家が仕掛けた、紫鯤（そして不定物0204）を縛るための檻だ。
いっそこの意識も捨てて、不定物aとしての初期状態に戻ってしまえば、何も考えず、ただ命令を聞くだけの存在に戻れる。こんなに思い悩むこともない。
それなのに、紫鯤の意識は紫鯤でいることをやめられずにいるのだった。

『紫鯤』

這い蹲りながら微睡む紫鯤に、声をかけるものがいた。
紫鯤はぼんやりとそちらに注意を向ける。

『聞こえているのでしょう、紫鯤。話があります』

相変わらずサラマンダーの姿をした同胞、カメリアが、じっと紫鯤を見つめていたのだった。