「……おイ、ウルヘア。ちっト、顔貸せヤ」
『どうした？　イェジ』

　攻城の休憩の最中、剣呑な様子で儂に声を掛けてきた子狐がくい、と首を動かす先は、木の陰。
　呼びかけに応えて、ゆるりと子狐を見る。
　何を訊きたいのか、大方の予想はつく。あの時のヒリアイネンとの会話を、聞いておったのだろう。
　示された先の木の枝に、軽く飛んで移動しながら見えた子狐は、け、と小さく吐き捨てていた。全く、すんなり移動してやっているというのに。
　子狐は木の根元に腰を落ち着けると、真っ直ぐにこちらに橙色の瞳を向けた。

「まァ、何聞きてェかは分かってやがルみてェだしナ、単刀直入に言わせてもらうゼ。……何で、嬢チャンには隠そうとすンだ。嬢チャンを守るにしテも、だ」
『……やはり、お主はなかなかにお人好しじゃのう』

　疑問と、疑念を隠しない声音だが、それはあの子を心配してのことだろう。
　口は悪いし、同行の少年への態度もつんけんしているが、この狐の人が好いのは最早間違いない。そう言うと顔を思い切り顰められたが、些細なことだ。
　どうして、隠すのか。
　そんなことは分かり切っている。

『あの子一人で、何ができる？』

　たった一人と、いくらかのエンブリオ。
　それだけで、大局が変わる訳もなかろうに。
　それならば、だ。

「……確かに、嬢ちゃん一人、戻ったところで、その状況を止められるたァ、そこまで俺もお気楽でも馬鹿でもねェよ。何にも出来ねェだろうさ。でも」

　どうにも、お気楽でも馬鹿でも無かったらしい。まあ、考えれば直ぐに分かることではあるが。
　子狐が続ける声音は、いつもよりも低い。

「——ってのは、後になって結構心に来るモンだ。……それも分かってて、言ってンのかよ」
『分かっておるよ』

　愚問だ。何を今更、言うのだ。
　話さないことで、隠すことで、恨まれてもおかしくはない。
　それは、覚悟の上だ。

『全部、分かっておる。……だからこそ、』

　沈黙が流れる。金と橙の瞳が交差する。
　暫く、子狐は真っ向からこちらを見つめていたものの、不意にそれを逸らして、目を閉じた。

「……なァ。あの嬢チャンは、良くも悪くも聡いだロ。お前らがいくら隠しても、いつカは悟っちまうだろウさ。それでなくとも、人の口に戸は立たねぇンだ。どっから知れるかなンて分からねェ……だから、そン時は、ちゃンと隠さずに話してやレよ」
『……イェジよ』

　いつか、あの子は知ることにはなるだろう。そう遠くない内に。

『やはり、お主はお人好しじゃ』

　それでも、それまでは——どうか、心穏やかであることを祈る。



　***



　一揆なんて、本来は無い方が良い。
　参戦してから既に結構な日が経って、これが日常だと錯覚しそうになるけれど、実のところ緊急事態だ。
　新王のネクター独占。民衆の反発。大規模な一揆の開始。
　こんなものは、本来は無い方が、良い。



「……ねえ、ミハウ」

　夕食の準備の最中。
　ミハウを手伝って、簡易湯沸し器に乗せた鍋のスープの様子を見ながら、私は彼に声を掛けた。

「アリシアたちと一緒に行動するの、これできっと、最後よね」

　アリシアと、ルカとシズは、そんな中で知り合った——友達、だ。
　最初に一緒に冒険したのは、砂地。ザントマンを探して。それから今まで、何度も一緒に戦ってきた。
　彼らは別世界からメルンテーゼにやって来たけれど、自分たちの意志で来たわけではない。寧ろ、帰れなくて困っていたし、帰りたがっていた。
　この一揆には、巻き込まれた、と言うのが正しい。被害者と言っても差し支えは無いだろう。
　こう言う人は、他にも居る。だから、一揆なんて無い方が良いのだけれど——一揆が無ければ、会えなかったのも確かだ。
　ミハウは私の声に、野菜を切る作業の手を止めた。

「……ええ、そうですね。帰る手立てが見つかったって、仰ってましたし。……寂しく、なりますね」

　寂しく、なる。
　迷いの無い彼の言葉に、私は目を瞬かせた。

「……ミハウも、さみしいと思う？」
「寂しいですよ。何度も一緒に行動している、仲間、ですしね」

　ミハウは野菜に向けていた顔を上げて、こちらの方を向いて頷いた。
　仲間、なんて言葉は言い慣れない風だったけれど、彼ははっきりとそう答えた。
　アリシアと、ルカと、シズは仲間で、友達だから。離れるのは、寂しい。
　彼の言うことはよく分かるし、私も勿論、そう思うのだけれど。

「……あのね。アリシアたちが帰れるようになったことって、とっても良いことだと思うのよ。ずっと、帰りたがってたから」

　それは喜ばしいことだ。帰りたいって言っていた彼らが、帰れる。
　間違いなく、喜ぶべきことだ。
　だから。

「さみしいって思うのは、いけないことかな、って。……そう、思ってたんだけど」

　アリシアたちに限った話でもない。
　本当は会うはずもなかった人たちと、沢山話をして。協力して。
　一揆が終われば、もう会うこともないのだろう。何せ、自分の故郷は、ここからずっと遠い。
　きっと、目の前の彼とだって。
　でもそれは、元通りになるだけだ。
　多くの人が望む、元の平和な生活に戻る。ただ、それだけのこと。
　だから、さみしいなどと。そう、思うのは。
　そんなことないですよ、と言いながら、ミハウは緩く首を横に振った。

「……寂しい、って気持ちは、その分だけ、一緒に過ごして来れたことの現れですし。それを、いけないと思う必要はないんじゃないかなって、私は思いますから」
「……困ったりは、しないかしら」
「大丈夫だと思います。しつこく言われたら、それは困ってしまうかもしれませんけど……一回か二回くらいなら、受け取ってもらえますよ、きっと。私の推測ですけど」

　見れば、ミハウはもう手元の野菜を切り終えたようだった。話しながら野菜を切るなんて芸当は私には、多分、できない。
　気遣うように、彼は言葉を続ける。きっと今の私の表情は、冴えないものなんだろう。

「アリシアさんもルカもシズさんも、皆、良い人ですから。コトカが三人の事を思ってすることを、迷惑に思ったりはしないと思います」
「そう、ね。そうだと、……嬉しい、なあ」

　三人とも、良い人たちだと思う。だからこそ、さみしいなんて言ったら、困るかと思ったのだけれど。
　大丈夫だろうか。
　それに——できることなら、また、いつか。今度はもっと、良い形で会いたいな、なんて。
　そんなことを、願っても許されるだろうか。

「こ、コトカ。……煮立ってます、スープ」
「……え？　っあ、わ、」

　ミハウの声にふっと気が付けば、ぐつぐつと言う不穏な音が聞こえた。鍋を見遣れば、これは、明らかに、煮立っている。
　私は慌てて、簡易湯沸かし器の火を切った。



　一揆なんて、本来は無い方が良い。
　けれど、彼らと出会えたことには、感謝をしても良いのだろうか。

　と、続けようとしたが、アリシアの言葉と——笑顔を、見て。

ましてや、自分程でもないだろうし。
続く言には、軽く頷いて返しこそ、すれ。
彼女が言葉を切った、その僅かな、ほんの小さな間に、目を眇めてから、

その気持ちを抑えて笑う人の顔は、大分前から知っていたし、気付けるようになった。
何処の誰のお陰だとか言うつもりはないが、謝ることでもないだろ、と、添えて。

此方もワリと真顔だった。
まさか喋るトラックとか、そうしたものが一揆に参戦しているだなんて思いもしない。
都会、については、

言外、身体の弱い自分のような人間でなければ、と。
触れられなければそれまでで、ちら、と、陽の位置を確かめるように見遣る。

緩い感じの説明だった。

コトカの言った言葉に、頷く。

全く見当違いのことを言っている可能性があるが、彼女なりに考えた意見のようである。

少女が述べた礼の言葉にも、安堵した様子にも疑問符を浮べて。
目をまるく見開いたまま、コトカの所作を眺め続けていた。

俺はそういうと剣を片手に持つ。

岩壁に一突き。ゴツっと音が鳴る。

一突き、二突き、三、四…

何度も繰り返し岩壁を突く。
そのすべてが最初に突いた箇所に、精確に、ずれることなく吸い込まれていく。

視線に先に気付いたのは、フレリアだった。
魚人に劣るわんこの気配察知能力。

武器を構えてコトカ達を見据える。
こちらの不躾具合が既にひどい。

似ていない自覚はあったのか、こちらも小さく笑って。

どんな生活をしていたかも知らないことに思い至って、少し言葉に詰まるも、
教えてくれたときの事を思い出して、推測を述べ。
似合わないなあ、と小さく呟き。

念を押す様な言葉と表情に、一瞬、きょとんとしたものの。
自分の言動を思えば、少し慌てて。

それなら良いことだ、と、微笑んで。

顔を上げ、近くにいるだろうエンブリオに、悪戯っぽく問うた。
そしてまた彼女に顔を戻す。

短い足でてちてちと、その場でひと回りしてみせて。
どう、と言わんばかりのおどけた顔。
すぐにこらえきれなくなったように、ぷっと噴き出しころころと笑い始めるのだけど。

自分が最初に言い出した可能性を、取り上げたくはなくて。ふる、と小さく首を振る。

新たな王を——とは、口に出したくなくて、唇を噛んだ。

　イヌワシは、いつも以上にやる気のようだ。

　一つ、大きく羽ばたいた。

　　　　　　　　　きみ達は下がって。 最初だけ、僕がきみ達を守るよ。 ）

──何処からか 声が聞こえる。
くすんだ青と白が溶けるように入り混じり、やがてそれは、ウサギの形を成すだろう。

影のような幻は、今にも消えそうに風に揺らいだ。

そう言った子狐の姿が、霞む。

変化は、一瞬。

長く伸びた紫銀の髪を背に払い、橙色の瞳を鈍く輝かせ。
好戦的に笑う青年が、そこにいた。