引戸に指を掛ける。


歪んだ木枠が、石床に躓いて体躯を押し留める。
朽ちてすっかり軽くなった扉が、大地の力を得たかの如く。
腰に力を入れる度、崩れでる屑片が肩に振り落ちて来た。


儚き抵抗を退けて、屋内へと足を踏み入れる。


真昼間にも関わらず、中はぼやりと暗い。

淀んだ空気に混じる、湿った藁の香りが鼻を衝く。
締め切った窓と、その直ぐ手前に置かれた篭のせいであろう。

新たな空気の流れに掻き回され、羽虫が天井付近へと舞い上がる。
室内には、その羽音のみが高らかに響き渡っている。


履物を脱ぎ、木の段を跨いで更に奥へ。

黒ずんだ木床、その上を歩く度に足裏が冷やされる。

闇掛かった部屋の中央、その箇所だけ浮かび上がる様に。
背の低い、横長の木机が一つ鎮座している。

此の周囲には、染み付いた壁掛けと一揃えの箪笥が在るはずだが。
光差さぬ現状にては、認めることも覚束ない。
ただ其処に在ったはずと、記憶の淵が物語るのみ。


埃一つ無い机の上、小さな飾りが目に留まる。
粗末で小さな、褪せた髪留め。
まるで机と一体となったかの様に、微動だにせず落ち着いて。

髪留めへと手を伸ばす。
冷えた空気を指先に突き刺しながら、血を巡らせる。


ふと、指が髪留めに触れたかと思えた刹那。

暗がりが溢れ出て、机と髪留めを覆い隠した。
在りし場所で手を動かせども、捉えるモノは何も無く。

此の部屋は全て暗の中へと包み込まれた。


相変わらず、家内には人の気配は無い。

黒の壁の中に、一緒のみ濃さを異にする輪郭が見える。
その僅かな隙間を抜け出で、隣室へと侵入して行く。


此処は、寝室であったはずだ。

巡らぬ空気が、己の一挙一動でのみ掻き回される。
懐かしい香りが、その在り様を鼻に運んでくる。
湿気った畳と、味気ない木肌と、埋もれた布団の匂い。

窓は全て塞がれており、瞳には何も映らない。
壁が何処にあるのかさえ、今では見当も付かない。


位置を悟らせぬ壁面が、遙か遠くへ退いたように感じられた。

さながら、部屋の周囲に限界は無く。
それは即ち、闇が果て無く周囲を這い巡り押し包んで居るのだ。


もはや、形在るモノすら思い出せることも無く。




また、同じ夢を見た。

彼女が目を合わせようとするなら、シズは反射的に逸らすだろう。
何ですか、と言わんばかりに眇めたりして、ルカは不思議そうに、ぱちぱちと瞬く。
それから、

自分が親になる、という想像は、今のルカには少し難しかった。
何も知らない自分が、親になれるのかとも思ったが、それ以前に、いろいろなことが。
撫でようとする手を拒むことはせず、大人しく撫でられる。
首を少しばかり竦めて、気恥かしそうに小さく笑ったりして。

言って、すっくと立ち上がる。
かかんにーちゃんとこまで競走！なんて言って、一人先に、彼のもとへと──

それから、ひとつ息を吐く。

騒乱の最中、との言葉にぼやく青年である。
半分以上不可抗力が重なっての現在だ。
ぼやきたくもなるというもので。

一揆の一員ともなれば、同じ目的を持って動く者同士ならば助力しあう事も普通だろう。
こうしてエンブリオの豊富な王城敷地内をウロウロしていても怪しいとは思われない。
安全を考えるならば、コレが一番だったのだ……と。

そこまで語って、複雑な顔でフィンヴェナハを見る。
言われた言葉に頭を掻いて、

そう言い放てば、姿が瞬時に霞んだ。
青年の身がかき消え、入れ替わるように金の甲殻を身に纏う巨大な竜が顕現する。
ちょっとした家よりも大きな身体をゆらし、首を巡らせた竜は下を見下ろしつつ、

腰の翼をバサリと広げ、どこか自慢気にそう返すのである。
……その背中。人ならば肩甲骨がある付近。
古い大きな傷が、甲殻の隙間からチラリと見えたかもしれない。

叩かなくても良いと言われ、"旦那様"に毒されている事実を思い知る。

言葉を探しながら、あなたの事を見つめてゆっくり話し始めた。
髪も、撫でられるままに任せている。

どのように見える？の問いにしばし考えた後に少年は素直に実直な考えを述べた。

言った後に情けなくなったのか、ぼそりと僕ももっと自分を鍛えよう…と独りごちた。