「……謝ること、ないのにな。 アリシア」
「今に始まったことじゃねぇけどな」
「へ 、」
「……いや、」

　振り返ることなく駆けていく彼女の背を、追うことはしなかった。
　見えなくなるまで見送って、先に、宿へ歩き出したのはシズだ。
　その後ろにルカが続いて、追い付いて、シズが歩調を合わせる。

　自分より少し高い位置のシズの顔を、ちら、と、ルカが見上げて、前を向き直って。

「……ミハウ達、これからどうすんのかな」
「これからも何も、一揆が終わるまでは一緒だろ」
「終わったら、二人もばいばい、すんのかな」
「するんだろうな、」
「……、……そっか」

　さみしい。

　前までは。
　前までは、人との別れを、こんなに寂しいと思ったことは無かった筈なのだ。
　毎日遊んでいた、いつかの少女とは、それこそ、「また明日」の約束があったから。
　また明日、また明日。 そうやって、会えることが分かっていたから。
　だから、「また明日」が楽しみなくらいだったのだ。
　早く明日にならないかなって、そればっかりだったのだ。

「── あ、れ、」

　ふ、と。
　思い出そうとしたワケではないが、ふと過った、自分も、彼女も幼かった、あの頃の記憶に足を止めた。
　あの日は確か、シズの具合があまり良くなくて、彼女と自分のふたりで、いつもの公園で遊んだのだったか。

「……どうした」

　隣を歩いていた筈のルカが立ち止まれば、シズも立ち止まる。
振り返って、立ち止まったままのルカに声を掛けて、少しだけ、首を傾いだ。
　いつものように遊んで、確かその日は、砂場で、そうだ。

「砂場でお城、作ったんだ」
「……は？」
「あ、いや。 ……前にさ、アリシアもオレも、まだ全然ちっさい頃のこと、思い出して」
「……何で急に」

　何故だろう。
　少し考えて、けれど分からなかったから、へにゃりと笑うと、シズが小さく息を吐いた。
　まあ、ルカのことだ。し、シズのことだ。
　聞いたところで「分かんねーや！」なんて返ってくるんだろうことくらい、分かっていたかも知れない。

「いつぐらいだろ、……その日はさ、シズの具合が良くなかったんだ」
「……」
「だから、オレとアリシアで遊んでて、砂場でお城作って。……そしたらアリシアにさ、お迎えが来て」

　おむかえ。
　彼女の大好きな母、時々、父親がそうやって、夕方になると彼女のことを迎えに来た。

　不思議なほど鮮明に思い出せることに、ルカは内心、驚いていた。
　同時に、これだけ鮮明に思い出せるのに、どうして思い出せないのだろう、とも。

「カラスが鳴いたから帰ろって、明日はブランコしよって、……結局、滑り台で遊んだんだけど」
「お前、好きだったよな。 滑り台逆走するの」
「……へへ」

　ブランコで遊ぶ約束よりも、「また明日」、遊ぶ約束の方が大事だったのだ。
　だから、また明日会った時には互いにブランコのことなんて忘れていることの方が多かった。

「その時にさ、アリシアがおかあさんとこに行く前に、急に言い出したんだ」

　ふいに立ち止まって、自分のことをじっと、あの菫色で見詰めて。
　不思議そうにしていたから、そうだ。 声を掛けた。


『アリシア？　かえんないの？』
『……ルカは？』
『おれももーかえるよ、おそくなったら、おこられるし』
『おむかえは？　ないの？』
『おむかえ？』


「ルカにお迎えは無いのか、って。 院長はさ、他のちびの相手で忙しかったし」
「……来たこと、無いよな」
「無かったと思う。 アリシア、院長の顔知らないだろうし」

　自分にはあって、ルカには無い。
　それが、当時の彼女のもとへ、急に疑問となって降ったのだろうと思う。
　両親は居ないし、院長はお迎えには来ない。
　だから自分は帰る時、ひとりなのだと。
　さみしくはないのか、と言う彼女に、いつものことだと笑ったことも、全部覚えている。

「オレさ、ひとりで帰るのさみしくないかってアリシアに言われて、さみしくないって答えたんだ」
「……」
「アリシアは知ってたんだよな。 お迎えが無いの、さみしいって」

　当時のルカは、知らなかったのだ。
　お迎えに来てくれる人の居る暖かさ、それが無い、さみしさを知らなかった。
　帰り道に繋ぐ手のあたたかさ、とかも。
　両親が居ないことを、疑問に思ったことさえ無かったのだ。

「……あの頃からオレ、アリシアの気持ち分かってなかったんだなあ」

　もっと早く、思い出せば良かった、なんて笑うと、シズが呆れたように肩を竦めた。
　また歩き出したシズの横に、ルカが並んで。
　並んで歩きだしてすぐ、さっきよりもゆっくりとした足取りで、宿に向かう。

　ルカの思い出話は、まだ終わらない。

「そしたらアリシアが、いいこと考えた！ って、目ぇきらきらさせてさ、」
「まだ続くのかよ」
「も、もう少しだから！ で、いいこと考えたアリシアがさ、オレの手ぇ取って、──」

　また、ルカが立ち止まる。
　
　そこから先が、思い出せない。

「お迎えが無いのは、やっぱりかなしいからって、アリシアがさ、言ったんだけど……」
「……覚えてねぇの」
「……オレさ、それ聞いた時、すーげえ嬉しくって、アリシアのこと、──っあ、」

　嬉しかったことは、覚えている。
　覚えているのに、彼女の声が、言葉が思い出せない。
　それだけではなく、嬉しさのあまりに彼女を抱き締めたことだって覚えているのに、だ。
　そうしたことを思い出して、ルカが一人で勝手に赤くなるのに、シズは溜息を吐いて。

「……今度は何だよ」
「ななっな、なんでもない」
「嘘吐け」
「ホントに何でもないってば！！」

　否定を口にする時、声を荒げるのは寧ろ、肯定を示すのだとか何とか、本で読んだ気がした。
　まあ、いいのだ。どうでも。
　その時自分は、そこに居なかったのだし。

「……なんて、言われたんだろ」
「俺が知るかよ」

　いくら物知りだからって、シズにだって分からないことは流石のルカにだって分かる。
　いっそ、アリシアに訊いてみようかとまで考えて、彼女が果たしてあの日のことを覚えているかどうかもあやしく思えて
　シズに提案するより前に、やめておこう、と思った。

　自分より少し先で、立ち止まった自分を待っているようなシズの横に並ぶべく、またルカが歩き出そうとして
　どういうワケか、シズが来た道を戻るように自分の前に立ったのを、見上げる。
　徐に差し出されるのは、シズの手首にずっとあった、ブレスレットだった。

「── へ、これ、」
「まだ解約はしない、……渡しておくだけだ」
「……でも、解約したら、シズは、」
「すぐに死ぬような話じゃねぇっつったろ、……森辺りなら、俺でも歩ける」
「……分かっ、た」

　ルカにブレスレットを預け、そうして、シズは更に来た道を戻って行く。
　宿は逆方向だ。 だって、宿に向かって歩いていた筈なのに、そっちは街の入口だと、ルカにだって分かる。
　もう、陽だって随分傾いて、きっとすぐに落ち切るだろうことだって。
　宿はもう、すぐそこだったのに。

「シズ？ 何処行くんだよ、」

　ルカの声に、シズは何も言って返さない。
　仕方が無いから、戻って行く静の後ろをルカが追い掛けて、また並んだ。
　シズが、歩調を合わせる。

「お迎えが無ぇのは、かなしいんだろ」

「── え？」

「……三人で帰るんだろ、一緒に」

「あ、……」

　シズの歩調が、少しだけ早くなった。
　気付いたルカが、今度はシズに合わせて歩いて、街の入口に後戻る。
　横顔をルカが見上げて、ふにゃり、笑った。

「……へへ」
「んだよ急に気持ち悪ぃ」
「いや、なんかさ、うれしくって」

　顔を顰め、眼鏡のブリッジを指先で押し上げる。
　何も無くなった手首を見、その手をポケットへ押し込んだ。

「お前、アリシアから何か聞いてねぇのかよ」
「全然無い。 ……シズは？」
「……俺も」


　彼女が何を想って、何の為に、誰の為に、今一人で居なくなったのかを自分達は知らない。
　まあ、分からないワケではない。
　シズにも、ルカにだって、ある程度の憶測くらいは。
　彼女が話してくれるまでは訊かないでおこう、とまで、同じ気持ちで。


「……おかえり、って、言おう」

「おう！」

　と、続けようとしたが、アリシアの言葉と——笑顔を、見て。

相手を安心させるように、できるだけ明るい声音でそう言い顔を上げた

強くても、意地悪い人より、よわいけど、やさしい人の方がいい

ボクもそれでいいと思っていた
ボクもそうなろうと思っていた

だけど

ほんとうにやさしい人なら、いじわるされても、殴られても、
やさしいから許せてしまえるものなのかな？

でも

いじわるされるのも、なぐられるのも
無視されるのも、悪口言われるのも

だから

　イヌワシは、いつも以上にやる気のようだ。

　一つ、大きく羽ばたいた。

　　　　　　　　　きみ達は下がって。 最初だけ、僕がきみ達を守るよ。 ）

──何処からか 声が聞こえる。
くすんだ青と白が溶けるように入り混じり、やがてそれは、ウサギの形を成すだろう。

影のような幻は、今にも消えそうに風に揺らいだ。

そう言った子狐の姿が、霞む。

変化は、一瞬。

長く伸びた紫銀の髪を背に払い、橙色の瞳を鈍く輝かせ。
好戦的に笑う青年が、そこにいた。