ENo.2744 エーリカ・リリエンタール

――『野盗の討伐』。
エーリカが以前いた街、スティルフで受けた依頼とはすなわちそれだ。
北方の街オルゼとスティルフを結ぶ交易路。中つ森を避け、海辺に沿ったそこに、野盗が巣くっているという。
互いの村の交易品を狙う盗賊。
おそらく、一つ二つの集団ではないのだろう。暫くの間スティルフに滞在していたが、あの張り紙が消えることはなかった。
何人もの冒険者があの依頼を受けるのを見たが、帰ってこなかった者は殆どいない。少なくとも、全滅したという話など聞いた事がない。
個自体はさほど脅威ではないのだろう。商品を奪われれば困る、だが常に護衛を雇うには費用が過ぎ、正式な討伐を行うにも手間が掛かる。
だからこその依頼。必要最低限のコストで済み、依頼の継続をする事で野盗の定住を阻止し、かつ冒険者は失ったところで大きな損失となり得ない。
事実として、盗賊による被害は格段に減ったと聞く。もっとも、ゼロにはならない辺り、野盗の根性の恐ろしさも感じるが。

そして今、エーリカはその前にいた。
木々の生い茂る森の中。平原を見渡せ、かつ自分たちの姿を隠すことの出来るそこに、彼らの住処があった。
組み合わせた木々に動物の皮を加えた簡易式のテント。見張りと思しき男が２人立っている他に、テントの中には明かりが付いている。
――３人、あるいは４人か。
単純に考えて、１対３では数の多い方が有利となる。近接戦闘で囲まれることは死を意味する。
故にここは、数を減らす事が重要となる。これは勝負ではなく、依頼なのだ。
手段を問わず、生死も問わない。ただ排除すれば良いだけの存在。

木々を背に、野盗達から身を隠す。
意識の集中、通される魔力、励起する回路は、行き会いの女性に”調律”されたおかげで過去最高潮の精度を誇る。
起動から組み上げに、一秒も要さない。

虚空から生まれた微風が、加速度的にその勢いを増していく。
枯れ葉を舞わす程度だったそれは、人間すら呑み込んでしまいそうなほどの『竜巻＜Windstorm＞』へと。
風を切る音。アジトを呑み込む濁音へ変化した。
遠距離からの奇襲であり、逃げるだけの暇はなかった。人数の確定は出来なかったが、この風は呑み込んだ者を決して逃さない。
荒れ狂う風が、呑み込んだまま留まる。呑み込んだ者を咀嚼する様に、吐き出す事なく回り続けたそれは、数秒の間を置いて緩やかに消えていった。
消えた竜巻の中から現れたのは、アジトの残骸と、３人の男。
身形は決して綺麗な者ではない。例えば、上着だけが新品であったり、身に付けた小物だけが妙に高価そうといったちぐはぐさ。
いずれにせよ、３人が３人、日に焼けた肌が小汚い者ばかり。
間違いない。こいつらが、討伐対象となっている野盗の一派だ。

先手必勝であり、迅速に片付ける必要がある。
何より、こんな場所からに一秒たりとて長居したくなかった。。
単節で詠んだ術式、起こった『突風＜Aero blast＞』が手下の一人を森の奥へと吹き飛ばす。
残りは２人。しかし、そうやすやすと終わらせてはくれない。
至近距離での白兵戦にもちこまんと、三下を先頭に２人が突撃してくる。
伊達に盗賊家業をしている訳ではないのか、存外にその動きは速い。
単節の詠唱とて、この速度と距離では満足な効果を望めまい。
構える形。手には断頭刃を。
迫り来る二人へ、力任せに真っ直ぐ振り下ろした。。
軽く、当然の様に、それを躱す、二手に分かれた両側から、ナイフが二閃、エーリカの両脇を軽く裂いた。
痛みは、無い。さほど深く傷付けられた訳でもなく、自然復元が軽傷を癒していく。
とはいえ、疲労感まで消せる訳ではない、スティルフの街を離れ、結構な距離を歩いてきた疲労は体に蓄積くせきあれている。
やはり早く終わらせる必要がある。

一度通り過ぎた二人が、駆け抜ける勢いのまま再び迫り来る。刃を構え、接近を待った。
振り下ろす刃、同じ一撃。力も角度も、同じ縦の振り下ろし。
そしてそれに対する反応も、同じものであった。
――見える。同じものであれば、動きを読むのは容易い。半ば賭けに近いものではあったが、分の良い賭だと自負があった、。

振り下ろしを避けてからの、両側からの同時の一閃。
親分の一閃を、強引に戻した断頭刃で受け止める。逆方、同じく閃いた一撃を、鋼籠手を持って防ぎきった。
三下にコレを貫けるだけの威力は無い、と踏んだが故の選択と方策。
防いだ手の甲を返し、三下の手首を掴み取る。崩しも払いもない、ただの力任せにその体を地面へと叩きつけた。
意識の確認はしてないが、これで十分だと想う。コレで残りは一人。
――ゾクリ、と。
その瞬間、背筋に何かが走った。
叩きつけた逆側、防いだお頭の方へと視線を向ける。そこには、もう目の前まで迫る男の姿。
防がれると分かっていたかの様な挙動、そして三下へかかずらっていたその隙をついた接近。その総てが、早い。
失態。間に合わないか。
無意識のうちに、刃が動く。狙いは当然、首。
反射を超えた、自律の動き。過たず首をはねるだろうと、双確信めいた予感がして――

　　　　　また、刎ねるのか

――ズキリと

　　　　　また、呑まれるのか

――ズキリと

　　　　　結局オマエは、何も変わってはいないのだ
　　　　　生命も意思もない、ただの一降りの弾頭刃
　　　　　何よりも首だけ望む、処刑道具に過ぎない

――ズキリと、いたむ。
――やめてくれ。思い出したくない。
――もう私は記憶を取り戻したのだから、記憶の無かったあの頃は私ではなかったのだから。
――忘れてしまいたかった。思い出したくなかった。記憶の水底に沈めたまま、二度と浮かんでこないことを願っていた。
――でも、それは叶わなかった。
――『彼』を、視てしまったから。
――私と同じだった『彼』を、視てしまったから。
――自分と『彼』の姿が、嫌が応にも重なり映る。性別もチガウ、役割もチガウ。でもそこには、紛れもない”空虚”が同一のものとして存在していた。
――記憶を失った者に自発的な行動規範はなく、潜在的に”空虚”が己が内を満たし行動原理を構築する。
――それはいわば、自分が自分ではない何者かに操られるも同然。文字通り、人形として”動かされてしまう”。
――『彼』は、まさにそれだった。私も、まさにそうだった。
――これを『鏡像』と呼ばずになんと呼ぼう。自分の嫌な面を、ただありのままに見せつけられる恐怖。
――やめてみないでみせないで。それは私であり私じゃないのだから。おねがいだから私の姿でそんなことをしないで。

中性とは、決して安定を示すものではない。
むしろその逆。刃先を歩く様な、そんな不安定さ。何かが降りかかるだけで、正か負か、そのいずれかに転がり堕ちてしまう。
仮に堕ちずとも、その均衡を保つのには些か時間を要する。
もしも、その”揺らぎ”が何かの最中に起こったならば――それは、致命的な隙を生じさせることに他ならない。

それは、まさに一瞬の出来事であった。
防御を潜り抜け鮮やかにエーリカへと接近するお頭に、強引に引き戻された弾頭刃がその首を狙う様に弧を描く。
その荒唐無稽な軌道に、お頭は目を剥いた。如何に速度の利があるとはいえ、一度付いた勢いは簡単に止められるものではない。
取られた――そう思った次の瞬間、男の目の前で、その刃はピタリと動きを止めていた。
見れば、女の表情は虚ろそのもの。まるで眼前の男が見えていないかのように、虚空を捉えている。
これは好機だ。千載一遇、何が起きたかは分からないが、自分が助かる絶好のチャンスだと、そう認識する他ない状況。
虚ろに見ていたエーリカの瞳に、光が戻る。されどそれより、お頭が振るった刃の一撃が遥かに早い。

――手にした『毒塗れの短刀＜Venom blade＞』が、女の身体を袈裟に切り裂いた。

意識の戻ったエーリカには、何が起きたのか分からなかった。
目の前には、討伐対象の野盗のお頭。その手には、今振るったと思われる一振りの短刀。
その首は、”未だ繋がっている”。
――ああ、自分は衝動に捕らわれずに済んだのだと、場違いな安心感が胸に去来した。
次いで訪れたのは、鈍い痛み。
何かと、視線を下ろした。映るのは、大きな傷痕。傷口からは、止めどなく赤い血が流れていく。不思議なことに、その傷だけは癒える気配がなかった。
ぐらりと、視界が揺れ落ちる。体勢を治そうとした足が、上手く動かない。
寒い。刻一刻と流れ出る血の熱さと対照的に、身体の熱がどんどん奪われていく。
握りきれなくなった刃が手から零れ落ち、地面に触れると同時に光の粒子となって消え失せた。
眼前のお頭が、下卑た笑みを浮かべてエーリカを見下ろしている。それはさながら、羽のもがれた蝶。どれだけいたぶるかは、男次第。

逃げろ、逃げなければいけない。
捕まってしまえば、死ぬよりも辛いものが待っていると、直感的に確信した。
目眩ましにでもなればいいと、地面の土をお頭へと蹴り上げる。
そのまま一目散に、走り出した。野盗たちから逃げる様に、がむしゃらに。
走る度に、胸の痛みが跳ねた様に全身に響き渡る。力の入りにくい足が、何度ももつれて地面に倒れる。
逃げる。ただひたすら逃げる。
何処へ向かっているかも解らない程、ただひたすらに。
自分の嫌なものから、一心不乱に逃げ回る。

それは肉体的な意味でも、そして精神的な意味でも、紛れもなく逃走であった。