例えば動物。鹿でも熊でもうさぎでもいい。
今日を過ごす為に、明日を生きるために、イシリクの民は狩りをする。その肉は彼らの血や肉や骨になって、その革は身を守るための衣服になり、その角や牙や爪は再び獲物を狩るための武器になる。
それが当たり前で、当然で、自然なことだった。
小さな村の皆は助け合い、支え合う大切な家族で、人間同士争うなんてことはなかった。
だから自分が同じ人間に襲われる、狩られる側になるなんて、一度も考えたことはなかった。いつか自分を襲ってきた兵士達だってそうだ。



「…なあ、俺達が良い大人で良かったな？これが強盗か何かだったら、下手すりゃ君ら死んでたぜ？」
だからさっき別れた黒髪の男の言葉が、いつまでも頭にこびりついて離れない。
外の世界はこんなにも故郷と違うのかと、アールは今になって自分の置かれた状況を冷静に考え始めた。
そもそも村の外に出ることになったきっかけ。
アールはそっと布の上から額に触れた。触れた先から熱がこもって全身に広がっていくようだった。背中の裏側で感じる息づかいは相変わらずひっそりとしている。

あの日。三男と山で別れたあとに聞こえたあの声。
その声をたどった先にあったのは小さな洞穴だった。太い木の根や背の高い草を掻き分けながらようやく入口にたどり着くが、そこにあったのは暗闇ばかりが延々と続くだけで、人の影も形もない。風が吹く。その度に奥からは獣の唸り声のように、あるいは人の泣き声のように「おおん、おおん」とくぐもった音が響いてくる。それでもあの声と間違えるにはほど遠い。
気のせいかと踵を返したところで、誰かが背中に触れた感触がした。触れられたのではなく、背中が熱を持っているのだと、アールは誰もいない背後を振り返って気づいた。まだ彫って間もない刺青が引き起こしているものかと思ったが、やがて熱は痛みを伴ってアールの背中を覆い始めた。
「……な、なんだあ？」
アールはこめかみに汗が伝うのを感じた。痛み自体は大したことはない。だとしたらこの全身を走る怖気は一体なんだというのだろうか。

村に戻ろうと洞穴を離れようとするほど、その痛みは強さを増していく。帰すまいとその体を離そうとせず、観念してアールも洞穴へと引き返した。
押さえつけるように自分の肩を抱きながら、慎重な足取りで洞穴を覗き込むが、目を凝らしても闇、闇、底なしの闇だ。もう一歩だけ踏み出すと、背中の痛みがすうっと引いた。体が飲み込まれるたびに、生暖かい空気が顔をかすめる。それから苔むした、雨の匂い。水が岩を伝う音。視界の悪い中、目で耳で鼻で肌で、ひとつひとつ中の様子を確かめていく。距離にすれば数歩のところだが、アールは長い間歩いているような気分だった。わけもわからないまま奥へ奥へと進んでいくうちに、少しずつ感覚が研ぎ澄まされていく。
どれくらい進んだだろうか。アールはその視界にようやく光を捉えて、目を細めた。それはぼんやりと人の形をしていて、光に照らされているというよりは自ら発光しているように見える。
「なあ、おい」
ようやく声の主を見つけたと手を伸ばそうとすると、光が一斉に伸びてアールの視界を奪った。眩しさに思わず目を閉じるが、瞼の裏に女の影がちらついた。

「……あんたは」
赤い大地を目指しなさい。
「赤い…なんだって？」
命の眠る尊い場所へ。レゥカルの導くままに。

「おい待てよ！」
そのまま弱っていく光に再び手を伸ばしたところで、アールは目が覚めた。伸ばした手の先には女の影も光もなく、虚空を仰いでいるだけだ。
「あ……れ？」
数回瞬きをしてみる。視界はすっかり晴れていて、体を起こすとゆっくりと辺りを見渡す。頭が殴られたように痛むだけで、確かにあの洞穴で間違いないようだった。
入口からわずか数歩のところにアールは倒れていて、それから周りに咲き誇る赤い花に気がついた。それはアールがレゥカルを授かる時に、大婆から渡されてたあの花だった。地面に咲いているのを見るのはこれが初めてで、血のような赤をたたえたそれらにアールは目を奪われた。

呆けた様子で花を眺めていたが、はっとしてさっきの出来事を思い返し、
「今のなんだったんだ……夢…だとしたら、どっから…」
首をひねり考えようとしたが、頭がぐわんぐわんと波打ってそれはかなわなかった。ずいぶん長い間倒れていた気がしたが、空の様子を見る限りおそらくここに来てから数刻も経っていないだろう。恐る恐る洞穴から離れても背中が痛むことはなく、アールは頭を押さえながらゆっくりとした足取りで村へと帰っていった。

村へ帰ったアールの顔を見た皆は、揃って怪訝そうな顔をした。なぜかわからず、アールもまた皆を訝しげに見返す。
「なんだ？俺の顔になんかついてる？」
「お前その……額のそれは一体どうしたんだ？」
言われるがままに額に触れてみるも、特に変わった様子は感じられない。額や頭をあちこち手探りしているのを見かねた一人が手渡した鏡を見て、アールは眉をひそめた。
自分の額に刻まれた見たことのない印。どこか禍々しいその形に皆小さく息を飲んだ。

「えっと……悪ぃ。ちょっとよくわかんないからもっと簡単に頼む」
「一言で言えば、呪いのようなものだろうな」
印を見るなり、大婆はしわがれた声で重々しくそう告げた。アールを囲む家族と大人たちが一斉に息をのみ、口々に不吉な言葉を口にするのが耳に届いた。
「その印はラフロケの文様……本来人の体に与えられるものじゃない。何か心当たりはないのか」
「別に、なにも」
明らかに動揺するアールに大婆は間髪いれずに、言葉を繰り返した。アールは体を小さくすると目を逸らしながら小さく事のいきさつを話し始めた。声のこと、洞穴のこと、そして赤い大地のこと。
「なあ、婆さんならなんか知ってるだろ？」
「赤い大地か。悪いが思い当たらんな。とはいえ幼少の時といい、お前がラフロケと何かしらの繋がりを持っていることは確かだ」
「俺はどうしたらいいんだ？これ、消えるんだろ？」
大婆は静かに目を伏せる。それが何を意味しているのかアールにも嫌というほど理解できた。
「なあ」
アールは声を押し殺すようにこぼした。
「俺、どうなるんだ？」
「わからない。私もこんなことは初めてだ。多分今までにもなかったことだ……何か村によくないことが起こっているのかもしれん」
大婆は足元に広げたまじない道具を見下ろし、そこに記された一人の少年の行先を見定めようと目を光らせた。
「赤い大地、とやらを探すしかないな」
「でもどこだかわかんねーんだぞ。それに俺、村を出るなんて」
「手がかりがそれしかないんだ。それにお前にはレゥカルがいる」
「……アール」
呼びかけたのは父親だった。
「これは、ラフロケのお導きなのかもしれない。お前の聞いた声は助けを求めていたんだろう？」
アールは力なく頷いた。父は息子の肩を掴むと、自分に言い聞かせるように強く続けた。
「お前にしか聞こえなかったなら、お前が行くしかない。大丈夫だ。お前のレゥカルは頼もしい。きっとお前の助けになる」
「父さん……」
アールは何かを言いかけて、ぐっと言葉を飲み込んだ。父の目をしっかりと見る。それから、精一杯の笑顔を向けてみせた。
「俺ももう子供じゃないんだ。心配すんなよ、すぐ帰ってくるって。外の世界ってのも面白そうだしな」
肩に置かれた手を握り返すと、もう一度「心配ない」とアールは呟いた。その手がわずかに震えていても、父は何も言わなかった。

夜明け前。アールはこっそりと旅支度を済ませ、麓へと続く山道に立っていた。肩まであった髪はばっさりと切り、母親の元へ置いてきた。考えたくはなかったが、何か会った時のためにと、形見のつもりだった。
村に出口といったものはないが、ここから先は山を降りることになる。目の前の木々は大きく口を開けアールを今かと待っているようだった。見送り人はいない。額の印のことは父が伝えてくれるだろう。布を額を隠すように巻いて、小さく息を吐く。
「行くか」
肩のイヌワシにそう言うと、アールは月明かりの下、村の外へと歩きだした。

　そこまで言って、はっとする。立場が逆転しているというか、
　なぜ強盗をしかけた相手にものを教えているのか、その滑稽さにまた、肩透かしを食らっている。

アールの落とした声、鋭く光る眼光に反射的に身構える。
しかしその次の行動もまた予想外だった。肩に置かれた手をどう受け止めていいのか、
振り払う事もできずにじっとしている

（少し離れた所の、チセを眺める/チセさんとのメッセージへ）

ドジ。
彼が見上げた空には、自分が見た鳥が自由に舞っている。
エンブリオだと聞けば、へえ、と彼を向き直って。

首根っこを掴まれたままで、ぶらんぶらんと揺れ。

腰に手を当てて、胸を張り。

得意そうな1人と1羽が微笑ましく、思わず目を細める。

『あの熊みたいなのと魚みたいなの初めて見たぞ』
ラァギットとアレジッタのことを言っているのだろうか。

ラァギットの方は毛色は違えど人間だったはずだ。
アールの言葉に首を傾げ。

口笛でそわ付いたが、撫でられれば落ち着いた様子になる。

そして、興味深そうに羽を見るアールの様子に気づくと、
触るか？と、問う様に畳んでいた羽を広げて。

チセの声は少しずつ、小さくなっていく。
自分は今、あの姉妹やリンテントポーゼの為に何かできているのだろうかと思うと、胸が苦しくなった。

『皆が皆悪い奴だと思っていたら悲しい』——
そう言って真っ直ぐにこちらを見据える少年の瞳には、一点の曇りも見当たらない。
その純粋さは、少なくともブラックには極めて奇異なものに映った。

自分を指して『良い奴』だという少年に改めて向き直ると、そのまま静かに口を開く。

その声音には単純な呆れの色だけではなく、どこかしら不穏な気配が滲んでいる。
それに対して少年は、果たして戸惑いの表情を浮かべただろうか。
しかしブラックは構わずに コツリと踵を鳴らして一歩、少年に歩み寄る。

男にしてはほっそりとした白い手が少年に向かって伸ばされる。
そうしてそれはおもむろに健康的な首元にするりと絡みついた。
ひんやりとした指先が、未発達な喉頚の形を確かめるように滑る……

薄青の瞳が昏く凝った。

指に僅かに力が入る。
ぴり、と張り詰める空気。



——しかし次の瞬間に響き渡ったのは、弾けるような笑い声だった。

一転してにこにこと人好きのする笑みが向けられる。
にっこりと…白々しいほどに。

『まあ、君は君の正しいと思うことを貫けばいいさ。どうなるか見ものだな』

そう言って愉しげに肩を揺らす。
しかしその表情は長い前髪に隠れ、少年の側からはよく見えなかった。

　

チセは不満そうだ。

敵に遭遇して臨戦態勢を取るアールとチセの前に、突然二人の女（？）が現れた。

そう言ってブランジェリーンと名乗る女は、モンスターに向かって魔力の宿る薄刃を構えた。
——どことなく見覚えのある武器のような気もするが、きっと気のせいだろう…。

　

/n0/笑顔を浮かべてはいるが、どこか寂しそうにチセは言った。

少女はソワソワしている。