気が付いた時には夢の中だった。

　くすんだ青と、白が混ざる森の中に自分は居て、だからこれは、夢なのだと。

　森が青い筈はないだとか、自分は寝台の上で寝ていた筈だとか、そういうことではなく

　自分の居る場所、その光景、この森が夢の中にあるものだと自分は知っていたからだ。

　訪れたのは──否、訪れたのではなく、自分は。


「やあ、シズ」


　招かれたと 言うべきだろうか。


「ようこそ、僕の世界へ」


　言葉を話す目の前の、森と同じ色をした影のようなウサギに。


「こうして会うのは初めてだけれど、自己紹介は要らないね？」


＊

＊

＊

＊

＊


　レーヴが想像していたよりも、目の前のシズは落ち着いているように見えた。
　そう見えるだけかも知れないが、ルカから話を聞いているからだろう。
　少なくとも、ルカの夢の中に住むエンブリオ──レーヴと、夢の中で邂逅したことに対しては。

「安心していい。 僕は、きみと契約しているわけではないから、きみの心の中までは読めないよ」
「……ルカは、」
「僕が呼び起こさなければ、この夢の中で目を覚ますことはないよ」

　白い木の幹を支えに、シズが身体を起こしながら問うたなら、レーヴはシズに背を向ける形で振り返り
やや離れた、向かい側に聳える大きな樹の下で眠るルカを示した。
　そこに横たわっているのは、レーヴの言う通り、確かにルカであり、レーヴはルカの夢の中に
このくすんだ青と白の世界を作り、ルカに力を貸す代わりに住処としている。

「……なら、俺はお前に“呼び起こされた”のか？」
「きみは、僕と契約していないだろう？ 呼び起こしたんじゃない、僕がきみをこの夢に引き込んだのさ」

　本当は、もう少し早く、きみと会いたかったのだけど。
　笑み声でそう言うレーヴに対し、シズの表情は相変わらずのそれだ。
　レーヴが今まで自分を、レーヴの夢の中に引き込むことが出来なかったのは、力を失っていたからだろう。
　けれど、目的が分からない。

「……何の為に」
「きみとお話する為だよ、シズ」

　おはなし。
　その響きだけは、やたらと可愛らしく、それでも違和感は拭えなかった。
　違和感、疑念、レーヴに対する得体の知れない不信感が、内側にじわり、滲むように。

「きみが“アンテ”と契約したことはね、僕も知っているんだ」
「……自分の半身を返せって？」
「“アンテ”に何を吹き込まれたのか知らないけれど、あるべき姿に戻ろうとするのは悪いことなのかな」
「……、」
「僕と“アンテ”が一つになれば、きみ達を元の世界に帰すことだって出来るのに？」
「──ッ！？」

　目を瞠ったのはシズだ。
　レーヴは確かに、今。

「……っ、嘘だ」
「どうしてそう思うの？」
「……、」
「“アンテ”に何を言われたんだい、シズ」

　レーヴの問い掛けに、シズは黙ったまま、何も答えなかった。
　眼鏡の奥、仄暗い金色の双眸は動揺をひた隠そうとして、それでも僅かに揺れて見える。
　眉根を寄せ、何か、葛藤する、ように。

「……きみが“アンテ”と契約したのは、僕があるべき姿を取り戻さないようにする為だろう？」
「……、……」
「それとも、それだけが理由ではないのかな」

　レーヴには表情が無い。
　中性的で、どこか子供めいた声音が紡ぐ言葉を、どこまで信用すればいいのだろう、か。
　どこからが嘘で、どれが嘘で、どこまでが嘘で、どれが。

「僕は、“アンテ”と一つになりたいだけだよ」
「……アンテは望んじゃいない」
「“アンテ”と僕が乖離したのは、そうだね。 “アンテ”が望んだからだ。
　でも、このまま“アンテ”の為に、きみが契約を繰り返すのは、ハッキリ言うけれど、危険だよ」

　シズが、緩慢に立ち上がる。
　自分を見上げる目の前のウサギのような形をした、影のようなものを見下ろし、目を眇めた。

「……アンテの為じゃない」
「エンブリオと契約する際に、何が必要か──きみだって、分かっているんだろう？」
「……」
「……危ないよ、シズ」
「お前に心配される筋合い無ぇよ」

　分かっている。
　何が必要なのかも、この選択が自分にとって、彼女にとって正しいものかどうかも。
　分かっていて、それでも選び取ることに躊躇いは、迷いは無かった。
　後悔なんてする筈も無いだろうから。
　したところで、どうにもならないのだから。

　自分は。

「……お前が元の姿に戻る為には、アンテの力を奪う必要がある、……筈だろ」
「そうだね」
「なら、俺がアンテとの契約を破棄しないと、お前は、」
「きみが契約を破棄しなくても、僕が“アンテ”と一つになることは出来るよ」

　シズが軽く、目を瞠る。

「だけど、それは、ルカもきっと反対するだろうし、僕もいやだな」

　レーヴはシズを見上げ、事も無げに告げた。
　その方法を、教えろとは言わなかった、筈だ。
　
　それでも。





「──“アンテ”と契約している、きみが死ねばいいんだ」





　




───── ……

─── ……

─ ……


…





「──── ……、…………」


　シズは、レーヴの声に目を覚ました。

　方法を教えろとは言わなかった筈で、けれどレーヴは、何でも無いように。
　訊かなくても察しはついていたし、告げられて尚、あまり驚きを感じなかった。
　自分のことである筈だが、恐らく、“それ”があまり遠くにないから、だと思う。

　なのに、自分の耳元でばくばくと煩い心音は、早鐘のようで。
　息をするだけで肺が痛むような苦しさも、得体の知れない身体の重さも、すべてが現実で。
　汗ばんだ額にはり付いた前髪を掻き上げ、そのまま視界を手の甲で覆った。
　じりじりと熱い頭の芯から、冷え切った手が熱を奪っていく。

　ここがもう、夢の中ではないことを、態々教えてくれているような、気すらして。
　きっと、あの夢から抜けだすことが出来たのも、自分が契約したエンブリオのお陰だろうと、考えた。

　元は、ひとつなのだ。
　似たような性質を持っていたとして、それは不思議なことではないだろうから。
　示された選択肢は、見付からないように隠してしまえばいいだけだ。
　そうすれば誰にも、少なくとも二人には知られることもないだろうから。
　
　重い身体を、緩慢に起こす。
　枕元に置いてあった眼鏡を手に取りかけたなら、ぼやけた視界が鮮明になった。

　
　「……、」


　壁掛け時計の針が示す時間は、陽が昇るよりも前だった。
　閉め切ったカーテンの向こう側はまだ暗く、テーブルの上のランプの火は小さく点した、まま。
　話をしている間に、一人で勝手に、先に寝てしまったのは床に横たわって眠る、ルカだった。
　自分の部屋から、わざわざ持ちこんだ毛布に包まって、起きる気配は無い。
　夢の中のルカは、今もまだ、眠り続けているのだと、思う。
　
　そうして眠る、ルカの隣に。
　同じように毛布に包まって眠っているのは、


「…………アリシア、」


　名前を呼ぶ。
　起きる気配は矢張り、無い。

　降り頻る雨の中、人数分の傘を持って後を追い掛けて、それから。それから。
　三人で三つの傘をそれぞれ差して帰ってきてから、これからのことをまた、三人で話したのだ。

　アリシアは笑っていた。

　控えめに、けれど、確かに。
　あれだけ笑うことがなかったにもかかわらず、例えるのなら、蕾が花開くように。
　そのキッカケになったのが、彼女の横で眠っている、ルカだった。
　何があったのかはきちんと聞いていないけれど、二人とも笑っていた。

　そうしてまた、芽吹いた小さな花を、蕾を、シズは摘み取った。
　摘み取った花を、蕾を摘み取っては握り、潰し、散らせた。
　何度繰り返しても何度も芽吹くその芽を、何度も、何度も。　何度も。

　何もしていない、今ですら音も無く自分の内側に芽吹くそれを、シズはまた、摘み取っている。
　もういい加減、気付かないふりも見ないふりも出来ないと分かっていながら。

　摘み取る。
　少なくとも、ふたりには知られないように。　気付かれないように。


　胸苦しさに気付かないふりをして、何度か深呼吸をする。
　その度に肺の辺りがつきりと痛むのにも気付かないふりをして、眼鏡と同じように置いてあった
ブレスレットに手を伸ばした。
　淡い淡い、レーヴの炎に似た色を放つそれを、


「──アンテ、」


　呼び起こす。

　すると、どうだ。
　重かった身体も、肺が痛むのも、嘘みたいに消えて無くなった。
　契約したその時から、こうしてしまえば良かったのかも知れない。
　そうすれば、少なくとも、この世界に居るうちは。

　一方で消えて無くならないのは、摘んで散らしてと繰り返すたびに痛むそれだ。

　気付かないふりは、もう。


── ……。

「……これでいい」

──本当に？

「心配掛けるより、ずっといい」

──本当に？

「……傍に居られるから」


　普段は黄色いリボンで結われている黒く長い髪を、起こさぬよう、努めてやさしく、撫でた。
　まだ幼さの残る、眠る横顔の、長い睫毛の、落とされた、瞼の。

　苦しいくらいに惹かれる、菫色の。


「…………アリシア、」


　どうか、どうか。


　気付かないまま。

そう挨拶しながら、イェジは尻尾でぺしりとミハウの頭をはたく。
それで我に帰ったのか、ミハウが罰の悪そうな表情を浮かべ、向き直る。

　ミハウの様子をちらりと見遣る。
　一瞬、視線を落とすも、直ぐにアリシアとルカたちを見て。

　そう言う調子は、いつも通り。
　少女の杖に乗るイヌワシは、黄金色の目を細めていた。

さも不可思議そうに、首を傾いで見せ。
次いでルカから発せられた言葉に対しては、更に目を丸くして応えた。

静かに息を吐きながら瞼を閉じ、思考を巡らせる。
開かれた瞳は、傍らにいるシズにもまた向けられて。

それは確信か、或いは信頼か。
どちらにせよ、揺らぐことのないものとわかる。

コウノトリという単語と、シズの声に、視線をシズの方に移す。
それから緩やかに首を傾ぐ。

まっとうな疑問ではあるのだけれど、素直に問い返すのもどうなのかという話であった。

一緒にするな、と、その言葉に、少しだけ、目を細めてみせて。
それから口を開く。

そう扱われた子ども自身が、どう思うかも知らず。
ちらとシズを見てから、目を伏せた。

ルカの世界の話には、不思議そうに首を傾げて。

手伝いには頷いて同意していたが、
コトカに聞いてみたら良い、と言われて、はっとしたように。

今気づいたとでもいいたげに、ぽかんとして。
すぐに、取り繕うように笑んだけれど。

撫でられながら、イェジは笑っている。

くすくすと楽しげに笑って、横に小さく首を振り。

人と街と花とを守る大事な仕事です、と少し誇らしげに胸を張って。

　フォローに聞こえないけれど、それでもそうと分かる言葉には。

　

　

　『高層ビル』の話については、

　メモ帳に描かれた絵と、それから説明には、興味深そうな表情を見せ。

　少女はすっと杖を構えた。