トーコとウィルとは、地下牢で分かれた。彼らはそのまま、奥を目指すらしい。
　何だか、あの奥はとても嫌な感じがしたけれど——二人なら、大丈夫だろうとも思う。心配なのは、心配だけど。

　それから水辺で再会したアリシアと、ルカとシズたちと一緒に進んで、敵を倒して、また別れて。
　またミハウと二人きりになって、無言のまま歩き続ける。
　ミハウは、あれからずっとぼんやりしていた。今だってそうだし、アリシアとシズには、少し気を遣わせたかなと思う。
　ちらりと、私の後ろを歩く彼を振り返る。物思いに耽っているように見えた。私がそちらを向いていることも、気づいていないんだろう。
　何かあったんだ、と思う。
　そう思うけれど、訊けなかった。
　どうしたら話してもらえるのか、分からなかった。
　きっと普通に訊いても、彼は話してくれないのだと思う。
　それくらいの、何か。彼にとって、大きなこと。
　私は、そこに踏み込んで良いのか、と。思えば、キリは無かった。
　小さく首を横に振る。また視線を前に戻して、歩く。
　このままじゃ駄目だ、とは思うけれど、今は考えている場合じゃない。進まなくちゃいけない。
　前へ。

　前へ。

「……っ！？」

　息を呑むのが、聴こえた。
　振り返った、その先は。

「——ミハウ！？」



　***



　クラーケンは水辺に棲む。イカ（見たことないけど、食べたらおいしいらしい）だなんてルカは言っていた。
　そのルカたちと進んで、クラーケンと遭遇した時にはそこまで脅威に思わなかったのは、こちらも応戦する心構えができていたからだろう。
　奇襲。
　状況は、全く違う。

「……すみません」

　何度目かの、謝罪の言葉。
　当然、聞こえているけれど、私は何も返さない。
　現れた敵を倒すことはできた。数が少なかったのは、幸いだった。
　それでも、ミハウは怪我をした。
　エンブリオの力を借りた簡易な治癒は既に済んでいて、今はミハウの腕に包帯を巻く。
　視界に写るのは、その白だけだったけれど、申し訳なさそうな顔をしているのは、分かった。
　敵の接近に気付かなかったのは、ミハウのせいだし、私のせいでもある。
　確かにミハウが気付くべき場面であったかもしれない。けれど、私も、考え込んでしまっていた。
　それは間違いのないことで、きっといつもだったら、私も気付けていたのだろう。
　謝らなくても良いとは思わないけれど、謝られても、何と返せば良いのか、分からない。
　分からないことばかりだ。

　黙り込んだまま。私とミハウ、二人だけ。
　ウルヘアとイェジは、この辺りの見回りに行ってくれている。この状況でまた奇襲に遭ったら、まずい。
　有り難いな、と思う。
　そうこう考えている内に、包帯は巻き終わった。
　ミハウを見る。
　このままじゃ、駄目だ。
　駄目、なんだ。

「ミハウ、……最近、変よ。何か、あったんじゃないの？」
「……いえ。本当に、何でも、ないんです。ただ…ぼんやりして、しまってて」

　同じ言葉。言い訳。歯切れは、悪い。
　彼の視線は、包帯に。
　どうしよう。
　どうしたら、話してくれるのだろう。
　私は、ただ、彼のことが。

「その、……また、今回みたいなことがあったら、私も、……困るわ」

　違う、そうじゃない。そうじゃなくて。
　口に出した言葉は、取り消すなんてことはできない。一度言ってしまえば、また、続く。

「……何かあるなら、言ってちょうだい」

　——本当は。
　本当は、仲間だから、訊きたくて。何か、力になれるのなら、なりたくて。
　ミハウのことが、心配で。
　でもそう言って、話してくれるのか。
　もしも、話してくれなかったら。
　仲間だと、思っていなかったら。
　酷く、不安だった。

「すみません、……」

　そう言うと、伏せた彼の表情は、辛そうなものに変わる。
　謝ってほしいんじゃない。傷付けたいわけじゃない。違うのに。
　けれど、そんな言葉を投げかけたのは、私なんだ。

「……でも、これは……私の、問題ですから」
「……そんなこと言っても、このままじゃ、進攻を続けるのも難しいんじゃないかしら。いずれまた、奇襲に遭って、……このくらいじゃ、済まないかもしれないわ」

　微かな声、だった。とても、弱い。
　自分の問題だ、とミハウは言う。その通りなのだろう。
　私はきっと、踏み込むべきではない。
　真白な包帯を見遣る。
　言っていることは、本心だ。
　今回は運が良かった。怪我もこの程度で済んだ。
　けれど、もしももっと強い敵が出てきたら。反応が遅れたら。いくらでも考えられることだ。
　危ない目には遭ってほしくない。
　でも、困るだなんて言っちゃったから、そうとしか伝わらないのだろう。
　自分がいやになる。まただ。また余計なことを。
　それでも、訊くしかない。

「……話して」

　はっきり言えただろうか。いつもみたいに。自信は、あまり無い。
　ミハウは巻かれた包帯に、手を遣っていた。痛いのだろうか。怪我をしたのは私じゃないのに、その様子が痛い。
　頷きが、返る。

「そうかも、しれません……ですが、聞いても、きっと気分のいいものじゃ、ないですよ。それでも、」

　いいですか、と。
　ゆっくりと上げた視線は、それでも私には合わなかったけれど。

「ええ」

　私は言った。
　聞きたい、と。
　そう、思ったから。

「……分かりました」

　ミハウは頷いて、小さく溜息を一つ吐いた。
　少し躊躇ってから、口を開いて話し出す。ぽつり、ぽつりと。

「その……地下牢に居た時に、私がイェジを探しに行ったこと、ありました、よね」

　今は見回りでいないイェジのこと。そんなことも、あった。
　思えば、あの時からだろうか。彼の様子がおかしいのは。

「あの時にイェジが、一時的に元の姿に戻ってて。それと、地下牢の風景を見て……忘れていた、わけではないんですけど、再確認、したことがあって」

　イェジの元の姿、と言うのは、話には聞いていた。
　彼は本当は狐ではなく人で、でも今は力が足りないから人になれなくて、それに、メルンテーゼとは違う世界から来たのだということも。
　そこまで力が戻っているということは、良いことなのだろうけど。
　ミハウは話を続ける。

「……私には、果たさなくてはいけない使命がある、ということ、と、それに関して……何の成果も得られてないんだ、ということを」
「使命って……ネクターを、取り戻すこと？」
「……ええ、それもあります。……ですが、故郷から奪われたのは、それだけではありません。一つの…一人のエンブリオも奪われました。私は、ネクターとそのエンブリオを取り戻すことを命じられて、一揆に参加しました」
「……エンブリオを？」
「ええ。エンブリオの名前は、アルキミア。そう、私たちが呼んでいるだけですが……街にとっては、大事なエンブリオで。生命力を大きく増幅させる力を持つ、とされています」

　だから、奪われた、と彼は呟いた。
　エンブリオ。アルキミア。彼の住む街にとって、大事な。
　私たちの森を守っていたエンブリオと——森の主様と、そのアルキミアは、似ているなと思った。
　本当に、本当に大切にされていたのだと思う。だから、命じられて。
　私たちだって、万が一、主様が奪われでもしたら、必死で取り戻そうとするだろう。
　その気持ちは、よく分かる気がした。
　ミハウは、俯いた。

「……取り戻さないといけないんです。でも、……参加してから半年以上経った今でも。その行方も、繋がる情報も何一つ、掴めないままで。何も、分からないままだって、気付いて……」
「……それで、最近ずっと思い悩んでたってわけ」
「……ええ」

　確かに、その通りなのだろう。私だってそうだ。ニコおじさまや他の村の人の情報は、掴めていない。
　焦っていないと言えば、嘘になる。つい、視線が落ちた。

「でも……それだけじゃないんです」

　ぽつり、と零れた。
　ミハウは、その先を言うのを、躊躇っているように見えた。
　けれど、結局のところ——言葉は吐き出された。

「……そうした使命があるにも関わらず、いつの間にか、私は……君や、皆と過ごす事に、思いを傾けていました」

　どきりとした。
　顔に手を当てて、吐き出すように言葉を重ねる彼は、酷く辛そうに見えた。

「……情報だって。集めようと思えば、いくらだって、手はあって。探そうと思えば、寝る間だって惜しんで探せたはずで！」

　彼は、自分を責めている。

「……それをせずに、ただ、共にいることを選んで、甘えていた……そんな自分に気付いて、……自分に、嫌気が差したんです」

　その原因は、私たちだ。
　私だ。

「個人の情より、使命は、優先されるべきなのに……！」

　ああ、ほら。
　彼の背負っているものは、私の背負っているものよりも、随分重い。
　既に、エンブリオは奪われているのだ。
　それこそ、必死で取り戻さなくてはいけない。
　だから。

　今の私は、彼にとって、邪魔でしかないんだ。

「……、……ミハウ、は、」

　顔は上げられない。言葉は震える。自然と伸びた手は、エプロンをきつく握った。

「ミハウは、これからどうしたいの……？」
「……私、は」

　俯く。顔にフードが深くかかる。
　表情なんて、見えなくて良い。見えてはいけない。

「……私は……」

　答えは、聞きたくなかった。
　私は彼にとって邪魔で、彼はきっと一人でただひたすら進んだ方が良くて、そのためにはやっぱり私はいない方が良くて、仲間なんて作らず、情なんて持たず、ただ、使命の為だけに。
　分かっている。彼とってはその方が良いのだろう。
　けれど、分かっても——それでも、



　私は、ミハウと、



　言葉には、ならない。できなかった。

　小さく、彼は呟いた。聴き取れないその言葉。それは、良いのか悪いのか。
　何も言えない。僅か、視線を上げた。

「……ごめん、コトカ」

　聞こえたのは敬語の取れた謝罪。
　ほんの一瞬だけ、見えたのは辛そうな表情。
　早く立ち上がり、地を蹴って。
　背を向けて、彼は駆け出していた。

「っ、え、ミハ——」

　名前を呼びかけた時には、何もかも遅かった。
　見えるのは駆け出す彼の背だけで。
　私は座り込んだまま、追いかけるなんて、できるわけもなかった。

そう挨拶しながら、イェジは尻尾でぺしりとミハウの頭をはたく。
それで我に帰ったのか、ミハウが罰の悪そうな表情を浮かべ、向き直る。

　ミハウの様子をちらりと見遣る。
　一瞬、視線を落とすも、直ぐにアリシアとルカたちを見て。

　そう言う調子は、いつも通り。
　少女の杖に乗るイヌワシは、黄金色の目を細めていた。

外れるんだそれ、と驚嘆した様子。いや自分だって地下にあったお骨一杯拾ったり毒物拾ったりしているけど

ぱち、と双眸が揺れた。きょとんとした様子

失礼とは思っていない。言動と見た目が伴っていなかったりするのかなとか、そういうことを思ってるわけでも決して、無い。ないったらない。

下を見て自分の服装を見る。
…コトカの服装を見る。

そうでなくとも十分寒そうという話はさておき。

違うか、と首を振った。
数えられなかったんだ。

まさにそれだな、と、乾いた声。

正しいとか、正しくないとか、難しく考える必要があるのかと。
これがその答えであるかのように。

正しくなど、ないだろう。

瞳を指差す。
自分の、禍々しく赤いそれを指し示す。

口からドロッとした液体を吐き出す。
途端に薬じみた甘ったるい匂いが広がり、
液体というよりゲル状のそれはベリージャムあるいはキャロットジュースを思わせた。

背後のにんじんは槍を引き抜くと、刺されたにんじんを掴み、
口から吹きこぼれるオレンジの液体をコップへ移す。
どろどろと止まることなく液体は流れ、コップ一杯になったところでぴたりと止まった。
用済みとばかりに槍で刺されていたにんじんを後ろへ放り投げる。

ずいっとコップをコトカへ差し出した。

今まであったことはたいしたことない日常の動作であったかのようにどくにんじんは平然と振舞う。
投げられたにんじんはいつの間にか姿を消していた......

神妙な面持ちで頷き。

納得したように頷いて、手帳にさらりと書き記し。

口調を少し真似して見せたが、当然というか、あまり似ていない。

好物を聞いて、ふと言葉を切り。

出会った時を思い返して、苦笑いを浮かべた。

　少女はすっと杖を構えた。