15.


　そして夜が明けた。

　窓の外にはすでに闇が白んだ世界が広がっており、タンポポ荘も間もなく目が覚めようという時刻。
　今にも止みそうで、しかしいつまでも降り続く霧のような小雨。屋根から落ちる水滴が窓の縁に落ちて、小さな飛沫をあげる。
　そんな景色を、リチェッタの店内からぼんやりと眺めているピアンタ・ディペントーラの姿がある。

　客席のひとつに座って、気だるそうにテーブルの上に肘をついている。
　密やかな早朝——というわけでもなく、タンポポ荘に一揆参加者が数十人と住まうようにもなると、こんな時間でも物音のひとつやふたつ聞こえることがある。とくにリチェッタの隣に食堂「ファミリーヤ」が出来てからは、早朝だろうが大抵誰かがいる気配を感じる。仕込みでもしているのか、あるいは営業時間外は誰でもキッチンを使っていいことになっているので、それかもしれない。
　——まったく、静かに落ち込ませてもくれない。
　ピアの口元に薄い笑みが浮かぶ。
　まだリチェッタという名もなく、誰一人として訪れることがなかったこの場所で見たメルンテーゼの景色が、なぜだかはるか昔のことのように感じる。
　まあ、あのときだって結局は、

　気が遠くなるほど共に過ごした相棒に、引っ張り上げられたのだけど。

　ポポロが笑いながら「えぇー」と不満そうな声をあげ、勢いよく開けた扉がいまさらになって閉まる。スキップでもしそうな勢いで店内へ入ってきて、ピアの近くまでくるとピタリとその足が止まる。

　実は寝てすらいない。横になっても眠れなかったし、何かしら身体を動かしていたほうが気が紛れるからリチェッタにきた——などということは、口が裂けても言うつもりはない。
　ピアが黙っていると、ポポロが隣に座ってくる。椅子の脚を引きずって、距離を縮めることも忘れない。
　えへへ、

　あまりの不意打ちに、ピアは思わず喉に物を詰まらせたかのような表情になる。
　それでもうバレバレだろうに。しかしピアはいじけた子供のように目線を逸らして、

　割と本気でへこんじゃうピアだったり。
　ポポロはそれを見てくすりと笑い、

　それきりの沈黙。ポポロはゆったりとした動きで頬杖をついて、にこにこと笑いながらピアを見つめている。曇天の中でも光彩を失わない翠緑の瞳を、ピアは素直に綺麗だと思った。
　無言の催促がおもはゆい。
　観念したように息を吐いて、言葉を探すように天井を見上げる。自分の内に抱えていた思いを言語化することは大層難しかった。

　そりゃお前の話だろう、というツッコミはしないでおく。

　ポポロは首をひねって心底わからない、という顔をする。

　ピアは目を丸くしてポポロを見つめている。ポポロの言ったことに驚いたのではない、ポポロの言ったことをあっさりと受け入れた自分に驚いているのだ。今まで「そう」だと思い込んでいた自分に対する理解が、跡形もなく吹き飛んだ瞬間である。
　そして、ポポロはこんなことを言い始めた。

　ポポロは苦笑しながら「すみません」と謝るも、すぐに「でも」と切り返し、

　当事者であるアニマを差し置いてどうこう悩むのが、そもそもおかしかったのかもしれない。
　横目で窓を見やる。いつの間にか雨は止んでいた。小雨だったから気づかなかったのだろうか。
　ピアは「よし」と呟いてから、席を立つ。

　その表現は言い得て妙だと思った。今はとにかく胸中のつかえを払いたい気持ちでいっぱいだから。
　ピアは足早にリチェッタから出て行き、ポポロは手を振ってそれを見送る。
　足音すら聞こえなくなるとようやくポポロは手を振るのをやめて、飲料の在庫でも確認しようかと立ち上がろうとしたところで、ふと思い出す。

　ピアはアニマに飼い主が見つかったことを打ち明けた。
　そして、思いも寄らないことが起こった。


　アニマはためらうことなく、飼い主の元へ戻ることを選んだ。

　　　＊

　住人たちが少ない、攻城戦が活発になる昼過ぎを選んでアニマはタンポポ荘の中を歩きはじめた。
　個室にはさすがに入らなかったが、出来うる範囲ですべてを歩き回った。家というものには、そこがどういう場所なのかを表す「匂い」があるとアニマは思う。誰にも言っていないが、はじめは何の匂いもしなかったタンポポ荘を不気味に思っていた。しかし、住人が増えていくにつれて次第に鼻をくすぐるような甘い何かを感じるようになった。
　今はもう、はっきりと感じることができる。

　この暖かな花の匂いを、忘れまい。

　アニマの小さな手が扉を押して、外へと出る。
　すでに空はひどい夕焼けだった。まさかそこまで時間が経過しているとは思わなかった。時間の感覚が喪失していた。
　そしてアニマに向かって、ひとつの影が伸びる。

　嘲るような口調とは裏腹に、アルラウネの表情には笑みひとつない。

　皮肉のつもりで言った言葉を真っ直ぐに返されて、アルラウネは眉根を寄せる。不快ではなく困惑しているのだ。
　そのせいか、思ってもいない言葉がアルラウネの口から出る。

　苦笑の気配、

　アルラウネが目を丸くする。

　そして、息が詰まるような沈黙。
　アニマが何かを言おうとするが——気づいた。アルラウネの両の拳が震え、固く握られていることに。

　間、

　アルラウネが息を呑む気配。
　アニマは無言で、沈まんとする夕日へ向かって歩き出す。
　そしてアルラウネは最後の抵抗をする。その顔に浮かんでいるのは、どこまでも嗜虐的な笑みだ。
　通りすがりに投げかけられたそれは、誰も幸せにはならない言葉だった。

　まるで通り抜け様に首を斬り飛ばされたかのように、アニマの歩みが止まった。
　長い沈黙の後、

　もはや語るべき言葉は尽くした。
　アルラウネはアニマが出てきた扉の中へと入っていき、アニマは再び歩き出す。

　アルラウネは感情を感じさせない無表情。しばらくその場を動かずにいたが、ふと何かに呼ばれたかのように顔を上げる。
　そこには、アルラウネにとっては広すぎるタンポポ荘の天井があるのみだ。
　アルラウネは思う。
　最後に見たタンポポ荘の景色は、アニマにはどう映ったのだろうか、と。

　そしてアニマは、視界に空しか映らないタンポポ荘の縁で歩みを止めた。
　夕日が地平線に接しており、間もなく夜がやってくる。
　しかしそれでもアニマはその場から一歩も動かずに、夕闇の空をじっと見つめている。落ちていく日を見続ける。

　いつまでも、いつまでもアニマはそこにいる。

不躾に調べていたところをくわっと見返されてナナシは驚いて後ずさる。
その後様子をうかがうようにしながらポポロの言葉を聞くと…

　クロエは『一揆に忙しくて水着買うような気にならなくてね』などとつぶやいている。

　非常に困惑している。

　ちょっと想像してしまったらしい。

〜過去編〜

空を往く大質量を見上げ、不意に言漏らす。
嘘じゃない、幻覚でもない、目の前に広がる光景はまごう事なき真実。
そしてX-13は驚くのをやめた。と思っていたら、

驚愕は尽きなかった。そうしてついにX-13は頭を抱え始める。

どこか感情のこもった声。
神、という物に対してあまり良い感情は抱いてない様子だ。

　数年、数十年経つと争いが必ず起きるとの話には、眉をひそめた。

　気になった。神様が産まれた時のピア嬢の顔を、ふと想像してしまったのだ。

ポポロの返答を聞いてから暫くの間、
ぽかーん、と呆気にとられたかのように口を開けていたが、

少し間が空いた後、信じたのかどうかは兎も角、そんな言葉をぽつりと零した。

肝心なところで使えない神である。

モヒカンザコがあらわれた！　▼

タンポポ荘への入居希望者のようだ。