◆　　　　　　　◆　　　　　　　◆　　　　　　　◆　　　　　　　◆　　　　　　　◆　　　　　　　◆

メルンテーゼに来て五年経っていても、その幻聴は未だ俺の脳裏から剥がれることはなかった。
元いた集落でも、野営時においても、それは容赦の欠片もなく「夢」という形で現れた。
兵士の7割ほどが何らかの形で正気を失うという□□□□□□戦役に於いて、戦場の悪夢は最も
ポピュラーな精神疾患の一つだった。
数時間前まで会話をしていた者がただの肉片となり果て、あるいは鉄の棺桶との異名をとる□
□□の中で蒸し焼きにされ、無神論者を気取る輩すら神の存在に縋る。
そんな状況が日常茶飯事の戦役だったのだ。

俺は残りの3割なのか、あるいはある意味7割に属するのか、戦場の光景を夢に見て目が覚めて
も呼気ひとつ乱れること無く平静でいられていた。

爆炎の地獄から目を覚ませば、そこは草いきれと虫の声がする野営の場だった。
焚き火の爆ぜる音は、市街地が焼け落ちる音とは異なっていた。
遠くで清流の流れる音もする。
視界に入る天蓋は、一面の星に覆われていた。見たことのない星の配置だった。
夢の残滓がまだ抜けず、地獄と深海が混ざったような、奇妙な感覚だった



同行者一同は星屑の降り注ぐ岩山にて睡眠をとっていた。
見張りの人影が小さな焚き火で暖を取っている。この季節といえど、山の気温はぐんと下がる
というのは、この地に於いても共通の物理法則のようだった。

見張りについていたのはサイという男だった。

「時計かなんかか、おめぇは。」

毎度定刻通りに起床した俺を見るなり、小さく呟いていた。夜気に酒の匂いが薄く溶け込んで
いる。
□□□□□同盟国の前線などでは珍しくもない、人体の欠損した剣士だった。
だが、頭蓋の半分や四肢の一部までも失ってもなお、ほぼ探索に支障なく稼働できるというの
は類を見ない。少なくとも俺は知らない。

呟きには応えを返さず、就寝を促す。
大儀そうに、しかし器用に立ち上がると、彼は白く濁った瞳で俺の髪を訝しげに眺めた。

「……なんだそりゃ。どういう仕組だよ」
「知らん。俺が聞きたいくらいだ。」

自身に関知できないことには答えようもなかった。
サイは訝しげな表情をすぐに戻し、焚き火の明かりが届くか届かないかのところに横になって
いた。
夜風がそよと吹き、俺の白く長い髪が揺らめいだ。
それは微かな燐光を発し、山岳の夜闇に浮かび上がっていた。

メルンテーゼに召喚されてから、一番目立つ変化がこの長い髪だった。
向こうの『世界』においては特に目立つことのない髪だった。長さも襟足で切りそろえていた。
ところがこちらに召喚されて気づいた時には、この異様な長さにまで達していたのだ。
切っても一晩経てば元通りで、踏んだり強く引っ張ればずるりと抜けてしまう。抜けた分は決
して失われたままではなく、すぐに質量が元の通りになる。

岩の上に晒されたそれは、小川のように見えなくもなかった。
数多の星の下、ともすれば自分がひとつの岩になったような錯覚すら浮かんでくる。
淡く光る髪の小川が、岩から滑り落ちているように見えるだろうか。
夜風が岩肌を撫でていく。

俺は山岳の静寂を外に感じ、地獄の戦火を内に感じていた。

軽く考えこむ。
魔法がないということは、そういう概念がないのか。
それとも使い方を誰も知らないか、魔力が世界にないか。