長月もはじめ 蝉の声もまばらになる頃
活気の戻る朽ちた我らの居、その片隅にて筆を取る。
筆を取る事は専ら私の記憶の整理の為だ。後生へ残す為でも誰かに伝える為でもない。
故に私の恥を晒すような書となる事もあるだろう。
その時には焼いてしまおう、焼いてしまって欲しい。
言霊を送り出すことすら躊躇われるというのに、わが心の内を衆目に晒したくはないのだ。


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道場で教えを乞う若者を見やる内に何かと重なるものを感じ得た。
想起させるものは靄がかって見えきらないが私には弟子が一人居た…—居たように思う。

思う、とするのは、本当にもう遠い昔のような夢うつつにあったような
どうにも追憶に楔がかった違和を覚える所為ではなかろうか
…私にもよく分からない。


「彼」はいつぞに立ち寄った町の、所謂貧民街に居た。
貧困からの窃盗、暴力、そうするほかない現実
親はない、捨てたのか死んだのかも分からない。目が覚めたように自我が芽生えると
すでに当たり前にように其処にあったのだと彼は笑ったのだ。
不器用な弟子だった。血の気多し、まだまだ幼子のように笑った。そう覚えている。


彼は生意気盛りであった。
私のことを決して師とは呼ばなんだ。誰が教えた訳でもなく　雪 と、短くそう呼んだ。
一回りも年が違うというのに全く無作法な弟子だ。

しかしながら彼は修練となれば人一倍真摯で、飲み込みも早く優秀そのものだった。
拳技との相性も良い。何より男児だ　私よりも遥かに体躯には恵まれている。
私は彼に希望を見出した。彼ならば私の跡を継ぐ事が出来る。
我が師や母や、父の志を閉ざさずに済むのだ。心の荷が一つ下りた心地だった。

同時に彼を死なすまいという思いもまた強くなった。この感情はきっと、子に向けるものに等しい。
彼を育て上げることに、彼を生かしていく事に執心する己を感じていた。


そうだ、覚えている、思い出した。　ただ死なせてはならない　と。
そう強く思った事だけはずっと心に染み付いているのだと今、気付く。
わが身を捧げ切り与える母のような、母性　いや　激情と形容するのがしっくりとくる。
それだけ鮮烈に彼は私の中にあった。
生かし続ける事が出来ると思った。私なら。
例えこの身を捧げても彼を守る為に強くなければならなかった。
より強くなる理由が出来た。　ああ、そうだここまでは思い出した。

…しかしこの頃から私の心は何かを誤ったようにも思う。
この、こう、何かを欠いたような違和は何なのだろう。

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机に墨の斑点が散り 筆がその上を転がっていった。
右掌にじっと視線を落とし、左手で覆い撫でるように何度もなでる。
今日は此処までにしよう。
締めの言葉も浮かばないうちにそっと仕舞い込み、部屋の灯りを吹き消して。

その丈、四尺七寸の大鉈「濠白浪」

その戸板のような刀身が、大きく円弧を描いて肩へ乗ると同時に、
斬慈のかかとにその重量による衝撃から小さな土埃が立った。

日々振ってきた鍛錬棒の倍の重量のその獲物の性能を、完全には使いこなせていない故の言葉だったが
新たに加わった医者への、不器用なりの気遣いでもあった。