拳を振り上げた青年の、心の揺らぎ。
戦いの中で見た、痛みを堪えるような表情。
あれがきっと、彼の『琴線』だったのだろうと、思った。
出会ってからずっと、仲間を支え、守る彼ばかりを見てきたから、
少しだけ驚いて──そして、問わなければと思った。
その行動の先の、後悔の有無を。
彼の激情に、眼鏡の奥の、強い後悔に歪んだ瞳を、思い出してしまったから。

手心の加えられた手に、理性を取り戻した声音に、
「面倒な奴」という言葉に、こちらへ付け加えられた一言に、罪悪感を覚えた。
彼は、とても理性的な人だと思う。自分を犠牲にし、他者を気遣える人。
そんな彼が見せた『心』に、自分の気持ちを押し付けてしまった。
上手く言えないけれど、見合わないもので、彼の感情を、汚してしまったような

気がした。


*****


「……何を言っているんだい、アリシロ？　『友達』を守るのは、当たり前の事

だろう？」
「……『アリシロ』？　僕はね、何だってする。
　友達だろうと裏切るし、利用する。剰(あまつさ)え、こんな風に呪う事だって

ある。
　でも、僕は、友達を見捨てる事だけは、出来ないんだ」

気がつくと。彼の笑みに、声に、じっと目と耳を傾けるようになっていた。
彼は、怖い人。彼の傍にはいつも、悪いものがある。
いつも、透明度の低い壁のような、柔らかで分厚い闇の向こうにいて、
そのせいか、彼の形すらも、時折陽炎のように揺らいで見えて。
なのに最近は、その中に、人の形を感じるようになった。
彼に触れようとする度に、震え躊躇ってしまうのは変わらないけれど、
彼に対する印象は、言葉を交わす度に、塗変わっていく。
その感覚は、彼の『友達』の形に対する戸惑い以上に、嬉しいもの。
彼の笑み以外の笑みに、次はいつ、出会えるだろうと思う。


*****


『魔女』と呼ばれているらしいけれど、
彼女には、聖職者や天使、という肩書きの方が、似合うような気がする。
自分と思い方が似ていると思うけれど、それ以上に。
彼女は、人の良い所ばかりを掬う。その人の救いにも、繋がりそうな柔らかさで

。
『癒し手』たる彼女の所以、というか、根本なのだろうか。
手を上げようとした彼を、唯一止めようとした所も。
曇りかけても浮かべる笑顔も。癒し守りきれなかった事に対する後悔も。
とても、真っ白で。けれど決して、盲目ではないのだと、思う。

……彼女の『肯定』ならば。『彼』も、救われてくれたのだろうか。
そんな卑屈な事を、少しだけ、思ってしまう。


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強さが欲しい。なのに、手に入らない。
ルトゥと空色の子は、決して弱くない。行動を共にしている彼らも。
いつも自分だけが、自分ばかりが、何も出来ていない。

これでどうして、彼の傍にいられるなどと、思ってしまったのだろう。

血と土に汚れた制服を川の流れに洗ぎ乾かしている間、
久しぶりに晒した素肌を、天に掲げて眺めてみる。
白くて、細い。
性別を思えばもう少し丸みを帯びていても良いはずなのに、
頼りげなく骨ばった腕。塞がりかけた傷が、虚しい。
溜息。

ふと、視界の隅に光が散る。
最近見慣れて来た、空色の子の。
問いかけるように首を傾げると、彼女は思わぬものを差し出してきた。

雪めいた白の細長い六花片。線状の葉。茎に編まれた、蔦の紐。
少し、大きさと形が違うけれど、これは。

「似てるだろ。さっき見かけたから、摘んできた」
「……ルトゥ」

そう言えば、彼には、祈りの花の事を、話していた。
いつだったか、栞に描かれた花の名を問われた時に。
けれど、

「何故……」

別れを告げられた、今なのだろうかと。
この花は、祖父の祈りの花。そして、彼との約束の花。
今はどうしても、彼のことばかりを思い出してしまう。
正直、見ているのが、辛くて。

「……約束が、まだ終わっていないからだ」

何を、言い出すのだろうと、思った。
彼は確かに、私を足でまといだと言って、
彼は確かに別れの言葉を──…否、

何か、引っ掛かりを覚えて。真白な花弁を見下ろす。
相変わらず耳が、心が、その音を拒むけれど、
一度だけ、口の中で、転がしてみる。

口にしたのは、あの夏の日以来だと思うのに、
どうして、それ以上の懐かしさが過るのだろう。

「……ねえ、ルトゥ。私は、……何かを忘れているの」

「それは……俺は知らん。
　俺が確信を持って言えるのは、あいつが今、お前と同じ事を考えてるって事だけだ。
　自分がまだ、納得できる強さになっていないと思っている、お前と」

「…………納得できる、強さ」

何かを、引き寄せなければいけない。そんな気持ちになる。
見落としている、何か。
見失っている、何か。
けれど、その何かがわからない。

糸口になりそうな、少年の言葉を心の中で繰り返しながら、

この森は慣れ親しんだ森ではないけれど、それでも淋しさは感じて。
思わず一人、呟いた。

無機質な声色が少しの威圧感を与えることには、自覚がないのかもしれない。
そう思えるほど、少女は淡々と話す。

ルドの声にはいつの間にエンブリオが消えていたのだろうと目を瞬かせ。
それをちらりと視界におさめ安堵の息を小さく吐くものの、
直ぐに気を取り直し、前を見据え。

すい、構える杖。やはり浮かぶ瞳の感情の色はいつもと少し違う。
そう。ここは森。長年慣れ親しんだ、いうなれば己の領域。
ならばもう仲間を傷つけさせまいという、確かな意思を持って。

ひとつ、息を吸い込む。鞄に下げた白い花を、包むように握り、息を吐く。

言い聞かせるように紡ぎながら、前を見据えた。

ありがとう。本当に。傍らの精霊達に告げれば、
彼らは嬉しそうに、風と鈴の音を、鳴らした。