ひそやかに笑む声が、夜風の上を滑って耳をくすぐる。
いや、確かに髪はその風にあおられてふわりと揺れ、
あらわになった耳にひんやりとした夜気が触れたけれど。
それは決して、彼の発したものではなかった。

眼前、見上げた彼の胸板は、肩は、少しも上下してはいなかった。
ひとつの呼吸の気配も、そこにはなかった。
先ほど頬に触れたとき。すぐ傍にある唇からは、少しの風も感じなかった。

ひやり、と肩口が冷たくなる。
彼が急に、違和感をまとったような気がする。
否、ようやく己がそれに気づいたというべきか。

彼ははじめから、自身が人間ではないと口にしていた。
それを、己のような獣人や何かの精など、
この世界に数多いる種のひとつであると思っていたのは自分だ。
だが、そうではないと悟った今でも。
彼がおそろしいものかもしれないという予感はあれど、厭わしいと思う気持ちはなかった。

ふと、彼の声音が変わったような気がして口をつぐんだ。
己を語る彼の声。
音の高低も、語調の強弱も、客観的には先ほどまでとなんら変わりはないのかもしれない。
だが、彼がとても大切なことを口にしているのだと、ひしひしと感じた。

《なもなきやみ》
《とこやみ》
《むみょう》
《くろ》

彼の並べる言葉を噛み締めるように、そっと口内で繰り返した。

戸惑いもあらわな声で、手を伸ばす。確かめるように両手で頬に触れようとする。
これまで幾度か触れた、そのときと同じように。
手のひらには、彼の温度は伝わってこなかった。熱いとも、冷たいとも、まったく。
だが、そこには確かな質量があり、彼という存在がいることは確かに伝わってくる。

唇が、何かを形作りかけてハッと閉ざされる。
口にしそうになったのは、そこに棲むものの名。彼のものかもしれない名。
呼べば、彼を消してしまうかもしれない名。
声にすることを恐れ、厭うように。のどを鳴らして飲み込んだ。
小さく咳払いをする。ごまかすように。