今度こそ全て、日の下に明らかにされた。
後は紫鯤が選ぶだけだ。
さて、どうするのか。


自分でも意外なほど、結論が出るのは早かった。
混乱はまだある。スギに対する反発もないわけではない。
だが、それでも。

「……紫鯤？」

こちらの姿を見つけたのだろう。
掠れた「兄弟子」の声には縋るような響きが滲んでいて、紫鯤は思わず苦笑した。
お願いだからそんな、辛そうな声を出さないで欲しい。いつもつんとすまして無愛想で、それでいて世話を焼いてくれる。それがいつも紫鯤が見て来た「兄弟子」の姿だったはずだ。
だから。

「いつも通りにしててよ、スギ」

足を踏み出す。地面を這いずるのではなく、こうやって二本の足で歩くのは一体いつ以来だろう。
自分が姿を見失っていたのはせいぜい五日間ぐらいだったはずだが、酷く長い時が経ったように感じた。

「これでいいかな、どこも間違ってないよね」
「紫鯤、お前」
「覚え込んじゃってるからさ、今更間違えないとは思うんだけど。ちゃんと人間に見える？　服も元通り、再現できてるよね？」

鳶色の猫っ毛を右手でかき回しながら、すっかり「紫鯤・ブランデンブルグ・波部」の姿に戻った彼は、スギのすぐ近くまで歩み寄った。
スギの方と言えば、眼鏡の奥の三白眼をこれ以上ないぐらいに見開いて、紫鯤を見つめていた。
ああ、酷い顔だ。

「さっきも言ったでしょ、スギ。いつも通りにしててよ。私もいつも通りにしか、やれそうにないみたいだし」

自分の作られた経緯を聞いても、結局何も変わらなかった。
紫鯤は紫鯤でしかいられなかった。それならば。

「もう『紫鯤』がデフォルトになっちゃったんだね、私。元の形も便利っちゃ便利だったけど、この姿になったら物凄く落ち着くんだもの。……もう他のものにはなれないね、これじゃ」

不定物aは術者の呪文によって、様々な用途に適応するべく姿を変える魔法生物であり、基本的には意思のない「道具」や「兵器」として扱われていた。だから「意思を持つ知的生命体への擬態」は行われていなかったのが実情だ。「意識があるようなフリ」をさせる事もなかった。所作を、振舞いを真似れば、多かれ少なかれ意識が生ずると彼らの「主人」は考えていたのだ。下手に意思など持たせて反乱されてはたまったものではない。
そのかわり彼らは複数回の擬態や変身を経て己の自我を発達させていったのだが、それはあくまでも「機能の最適化」の範囲であり、主人達に尽くそうとする奴隷のそれである事に変わりはなかった。カメリアの態度が妙に機械的なのもそこに起因しているだろう。
しかし紫鯤は違う。生まれたての不定物aに「人間としての感覚」「自分は人間だという思い込み」「紫鯤という架空の人物のパーソナリティ」等を埋め込む事で発生し編み上げられ意思は、最早それを仕込んだスギや境戸家の人々でも解く事が出来ないほどに成長し、強固な「意識」として根を張ってしまった。
限りなく人間に近付いてしまった彼の意識では、例え外身を真似たところで、もう「心の底まで他の何かに擬態する」ことなど不可能だろう。

「完全に人間になれる訳でもないし、いっそ死んじゃおうかなって思ったりもしたんだけどさ。……怖かったんだよね、やっぱり」

不定物aは衝撃にはかなりの耐性があるが、殺す事そのものは容易い。体内の核を砕けばいい。
自分の意識は実験の産物であり、そこに意味などないと気付いてしまった紫鯤が真っ先に考えたのが、自分で核を砕いて自害することだった。
だが、できなかった。人間として育ちすぎた紫鯤の意識は、己の消滅を恐れるようになっていた。

「最低限自分の身を守る機能はあるらしいんだけど、不定物aは基本的に死ぬのを怖がらないんだってさ。そもそも生きものって言えるかどうかも曖昧らしいし……本当、中途半端なものになっちゃったよねえ、私」

笑い声を立ててみる。乾いた声。よし、特に変な響きはない。

「他の何かになることも、消えることもできないんだったらさ、そのまま突っ走るしかないじゃない。だから、戻ってきちゃった。……ごめんね、スギ。いっぱい、心配かけちゃって。後で皆にもちゃんと謝らなきゃな……」

スギは暫くの間、黙ったままでいたが、やがて。

「……紫鯤、お前は」
「うん？」
「お前は、それでいいのか？　本当に？」

その目にはまだ、怯えの色が見える。紫鯤の正体にではなく、紫鯤がどう思っているのかが不安らしい。
もう少し、説明する必要があるだろう。

「だって、それ以外どうしようもないでしょ。私は私でしかないみたいだし——それに、スギにあそこまで言われちゃうとねえ。手放したくないってさ」

先程言われた事を思い出し、紫鯤は声を立てて笑う。
スギが視界の端で罰が悪そうに目をそらすのが見えた。

「私、人間じゃないけどさ。……まだLaWSysに居てもいい、そう言う事だよね？」
「……居てもらいたいから、こうなったんだろ」
「うん、ありがとう」
「……もっと怒れよ、お人好し」
「そう作ったのはスギじゃない。それに、怒るのも混乱するのも、もう飽きたし」

自分の正体を知ってしまった以上、今後の人生は決して平坦ではないだろう。
境戸家の人間が情報屋を装って接近してきたり揺さぶりをかけてきているあたり、彼らも未だ紫鯤を諦めてはいないらしい（そう言えば、カメリアが吹っ飛ばしてしまったライはどうなったのだろう）。
おまけに紫鯤は「存在しない人間」である。いくら彼が人間そっくりに化けていられるとしても、スギと共に元の世界に帰る事ができても、紫鯤には戸籍を始めとした公式なデータが一切存在しない。普通に暮らしていくなんて到底無理な話だ。
それでも、紫鯤は紫鯤でしかいられない。だからこのまま歩くしかない。

（まあ、開き直りって言われちゃったら、それまでだけど）
「さて、そろそろ戻らなきゃね。皆に挨拶とごめんなさいもしなきゃ」
「そうだな。……歩けるか？」
「ん、大丈夫。勘も大分、戻ってきてるし」

仲間達にどんな風に報告するべきか悩みつつ、紫鯤は歩き出す。
そうして最後に、一番気になっていた事を口にした。

「ねえ、スギ。あの子は……鯤ちゃんは、実在してるの？」

自分の妹として設定されていた存在。
紫鯤の全てが捏造であったと聞かされた今でも、彼女の事を考えると胸が締め付けられる。
スギは一瞬目を見開いたが、すぐに伏せ、頷いた。

「……ああ。境戸家を出奔したのも、本当だ」
「そう。……じゃあ、ライが言ってた『庭園』って魔術結社にいるって言うのも」
「事実だろう。名前は変えているらしいが」
「……ん、分かった」

少しだけ唇を噛む。目を閉じる。

（あの子は私の事なんて知らない。私達に血の繋がりなんてないし、そもそも私は人間じゃない）

だが、簡単に切って捨てることもできない。元の世界を出てからずっと、呪いを解いて（ああ、それも嘘だった）彼女を境戸家から守る事ばかり考えて動いていた。もっとも、守られていたのは自分の方であったのだが。

「スギ。頼みがあるんだけど」
「何だ」
「参加しちゃったからさ、この一揆は最後まで見届けるよ。でも、これが終わって、落ち着いたら……いつか、あの子に会わせてくれないかな。『庭園』に接触する手伝いをしてくれるだけでもいい」

スギが絶句する気配がする。

「勿論、私の正体とか、あの子を妹だって思ってるとか、そんな事は言わないよ。ただの一魔法使いとして、挨拶してみたいんだ。……一度だけでいいんだ、あの子をちゃんと、見ておきたいんだ」

元気にやっている姿を見ればきっと、踏ん切りがつくと思うから。
そう続けた紫鯤の言葉に、スギは小さく一言、分かった、とだけ答えた。

ぶん、と大剣を一振りして、快活に笑う。