……あの泥。
ただのエンブリオのなせる業じゃあない。
《ウルドスピン》とやらの賜物か……？

ビンタか……ビンタ……ビンタなあ……。
………。
ビンタ。

へぇ、あったんだ。きっと子供の形をしたのじゃなくて、君の言葉どおりの、あやふやなものなんだろうね。
幼体……いや……たぶん君はとっくの昔にできあがっていて、
成長しきった今もなお人を目指している……　のかな……

ヤール、君は人になりたいのか？

”たぶん”？
ふふ、困るな……もしかしたら君と密約を交わすかもしれないんだから、
もっと詳しく教えて欲しいものだな。

正直に話そう。さっき、私の名前について聞いてくれたけど……。
私は、もう自分の名前を覚えていないんだ。いや……ユディタだと【思っている】。
子供の頃から、ユディタだという名前だと知っているんだよ。
でも……本当は違うんじゃないかとも、思っている。

私の記憶には、事情があって他人の記憶がツギハギされている。それは頭にしみついていて、直接脳をいじくられているから、どうすることもできない。

でも……　"目の記憶"があるなら。

目は子供の頃から一緒だ。何が言いたいか、わかってきたか？
わたしの、目を一つあなたにあげたら……
私の子供の頃の記憶が、見えたりするのかい？
名前が、わかったりする？

ああ。元通りに生き返らせられる。ただ大きな欠損があってはだめだ。
だから、何かに食われたり、腐っていたり、骨になっていたら手遅れ。
まぁ、手足がないぐらいならそのまま息を吹き替えさせればいい。

"魂"？　フフッ……　そうだね。人の意識を魂と呼ぶのならそうだ。
逆に言えば、私は魂を人の意識としか言い表せない。つまり肉体ありきさ。
だから肉体を失ったら魂なんてものはない。そして肉体があって脳や内臓が正しく機能すれば魂なんて後からついてくる。
……大鍋の魔女の知識ではね。

そうだね、みんなが死に向かっている……それはどうしようもない。ただ、みんなそうしようとしてはいないけど。
みんなはどうにかして、死を先延ばしにしようとしている。それが君と違う所だね。
まぁ……貴方の生き方にはとやかく口を出すつもりはないけどさ。
こうしてお喋り……ふふっ、……そう、お喋りできたことは感謝しなくちゃ。君の勇気ある一歩に。

へぇ……　行き倒れ。メルンテーゼで……そりゃ大変だったね。
娘って……そんな簡単にできるもんなのか。いや、きっといろんなことがあったんだろうけど。
そうしたら、私にも娘みたいなのはいたなァ。
……ちょっと会ってみたいよ、きみの娘さんに。

生きている？なんて定義のできないこと聞いてごめん。
でもきみは生きたい、んだろ。少なくとも死んでなさそうだ。

へぇ〜、よく出来てるな。真似にしちゃ上出来だよ。
それじゃ、容姿も簡単に変えられるの？

……その灯はほんものです。
そうだと信じることが信仰なのでしょう。
だから僕は信じている。

……、そういう風にいわれると、驕っているようであんまり……、
ではなぜルーが僕を選んだのか……とか、本当のことは何もわからない……

——。

……アルームの人々が病んでしまったことは、僕本当に全然理由が判らない。
聖処女様に祈りを捧げるためのネクターがなくなったから、
そうして天使が……ルーアハ以外の天使が、祈りを届けることをできなくなったから……
……僕らの祈りが、届かなくなってしまったのだと……
振るい落とされるようなはずはないんだ。僕以上に敬虔な、あのひとたちが……。

……それに、神は一人じゃないのでしょう。僕には僕の神が、あなたにはあなたの神が。
そうして、誰も名前も姿も知らないような神さまも……いるのかもしれない。
だとしたら、……捨て置かれるようなひとびとも、救われるときがくるかもしれない、
僕らのしらない神々に。

母親？……知らないです。僕両親がありません。
父親が僕をアルームに連れてきた、というのは聞きましたけれども。
でも悲しいとか思った事は、べつに……僕にとっては聖処女様が母親のようなものですから。

……、あなたは？母親は……。

——なんだか、あなたのいう死は……、それが、それこそが、
あなたの探しているところの「美」のような、……聞こえかたが、するような気がする……。
わからない……ですけど、
あなたの……《真実の名》、それはなぜあなたを死に至らしめるんです。
それは美しいものではないから？……僕は、知らないけれど、
……なんとなく、あなたの名は、美しいんじゃあないか、って思う……

ほんとうの美っていったいなんなんでしょうね。
なんだかわからないけど僕のことを美しいとやたら言うひとがいて……、
僕そのひとのことをまったく理解できなかった。

「ほんとうに美しいもの」の定義ってなんだろう？
誰もが納得して、誰もが……思い描くだけで、涙が出るような……、そういうものだろうか。
……そうだとしたら、あなたの言うように、
だれにも共通の美なんて、存在しないのかもわからない……

……同意が必要なんですね。良かった、そしたら僕あなたと安心して話していられる。

……たぶん。

でもそうだとすると、ヤールさんとてもカッコいいから成功する事多そうな感じだわ。

…ええ、もう半分滅びかかっていた…小さな世界だったから知らなくても仕方ないわ。
その娘さん？にも、その世界の名前を知っているかどうかだけでもいいから…

聞いてもらえると凄く、助かる。

…記憶を頼りに視力を得る…か。

…私は普通の人より視力がよくて、見え方が随分違うのだけれど
ヤールさんが私の眼を使えば私の見えているものが見える…のかな。
…例え短くても……

実を言うとね、ヤールさん。
私は貴方に、この片方の眼をあげてもいいかなって思っているの。

もう本当に、随分と昔に私はこの右目だけ別の人の目が入っていたことがあってね？
左目だけで物を見るのは慣れているから…。

貴方の言う“美”がどのような物かは判らないけれど…
もし私の記憶を頼りに見るのなら、私の目はきっと普通の人より沢山の物を見ている自信があるわ。

い、いいいいえいえ！
ただそのめめ滅茶苦茶びっくりして！

その気ならぼくとっくに簀巻きにされてますからね
賞金首ってもっと白目剥いて襲ってくるモノかと……

………………白目は剥いてますね

しかし、目の見えない状態で
よく奪う側に回ることができましたね……

……娘さんが、いらっしゃるの。
そう……

父親、なのね。
……娘さんとも、こんなふうにお話、されるの？

だめにならない……目玉。
あなたのもとを、去らない、ひかり……

ならあなたは……どんな眼になら、留まってほしいのかしら。
どうしたって引き止めたいほどに望むものが……なにか、ある？

眼を……ひかりを得たい、見てみたい、って……
そう言いながら、あなたは……なんだかとても……真剣には、見えないの。

甘いお菓子が欲しいけれど、ないならそれでも構わない……
そんな、感じだわ。

たとえば、わたしがあなたに、眼を、あげても……
その眼と、誰かほかのひとの眼と……あなたには、同じなのじゃ、ないかしら。

ほんとうは……ひとの望みに、こんなこと、いう資格なんてないのでしょうけど。

見たい、と思うのが……それを望むのが、嘘では、なくても。
それだけじゃ、きっと……

ずっと……何度繰り返しても、ひかりは、去ってしまう……
わたしには、そんな気が、するの……

……わたしが、しあわせを、知らずに……
しあわせになりたいと、望む、ように。

我々を襲った連中はおそらく「そのどちらも」だったよ。
さすがに格上を狙うほど愚かではなく、しかしこんな大仰な
チラシまで配られるというのに略奪を止めない。

私にとってはひどく恐ろしいものさ、人目につく明らかな行動はね。
私には出来ないことだ。こうしていると私には貴方もそう見えるのだけれど。

ヤールがそうやって健在で居るということは、
誰もその名前を見つけられなかったのだろ？
ずいぶんな難問に違いないだろうね……

あ。
名前を知られるのは、ヤールが嫌っている「明らかにされる」ことだわね。
貴方が名前を知ったとき、明らかにされる自分の領分は巨大なのかも。

……ああ、もちろんさ。そう吹っかけられると恥ずかしいものだけどね。
私から見て心底美しい貴方には惹かれるところがある。

そして貴方の言う通り、貴方の暗い落ち着きへ向いているとも思う。
私もまた色々なことを隠匿し、そしてこれからもし続けるだろう人間だ。
そう、私は……

そうして明るみに傷みながら浮上する貴方に、特に惹かれている。
私は貴方と話していると、全て曝けてしまうのではないかというほどさ。
貴方がそう少しずつ目の前で明らかにするたびにね。

呼ぶとも。その時が来たらヤールに文を送るようにするさ。
もしも叶わないなら引退どきに遺書にも遺す。私の眼を通して
貴方がどんな風に世界を視るのか、感想は訊けないだろうけれどね。
……考えてみたらそれも少し残念だ。

生まれた時から「底の底」だろう。
普段から寂しい調子ではいないだろうが、何か、妙に情が湧くよ。
なんとなく喜ぶことをしてやりたいものさ。

「名前」の話をしただろう、ヤール。
私はエンブリオに彼の名を付けた。皮肉な思いつきだった。
アレはたまに形を持つだろう？私の哀れな幻覚なのかもしれないが、
彼は今や少しずつ私へと歩み寄っているように思う。

私は過去を見なかった。今までは、一時も。

貴方の言うように、彼は今分かちがたい過去となってしまった。
彼という過去を失えるとしたらどんなにか楽だ。
私は一応医者みたいなモノだが、治癒とは失うことだと捉えている。

その究極と呼べるものがあるのなら、過去を切断することに他ならない。
……私はその先にしか未来と呼べるものを持ち合わせていなくなる前に、
そうしたやり方を探らなければならない。

おとうさま。手を差し出してもつかめなくて……
でも不思議だね、おとうさまのその掌だったらおさまるようでもあるもの。

死に損ないだらけだな。
元の遺骸は……誰のものだ？

やれやれ……随分と静かだったのに……
——けれど、ここにも花は咲いているね。

ただ好かないな、
……女は愚か者を飾り、護るための生き物ではない。
君が、わたしに額づき、その脚に触れることを願うのが筋だよ。

私に歯向かおうなんて、一千万年早くない？

私に歯向かおうなんて、一千万年早くない？