ぺたり、と額に何かが触れる感触を感じた。
　ひんやり、とした冷たいそれは、深く沈んでいた俺の意識を浮かび上がらせるのに、十分過ぎるほどの刺激であったと思う。
　ハッとして、俺は顔を上げた。
　顔を上げるのと同時に、俺の額に触れていたひんやりとした何かも離れていってしまう。まぁ、当然だろう。いつの間にか机と睨めっこする形で傾けられていた顔の、その角度の額にそのひんやりとしていた何かは触れていたのだ。俺が何も考えずに頭を上げてしまえば、その触れていた何かから額が自然と離れていってしまうのは当然である。
　顔を上げてみると、そのひんやりとした何かの正体がまず俺の視界に飛び込んできた。エアナ、である。
　エアナはいつものように宙をふよふよと漂い、丁度俺が顔を上げた真ん前、すぐ目の前を位置取りしていたらしく、思いの外顔が近い。というより、ドアップだ。まぁ、サイズがサイズだけに、これだけ近い距離であっても、そこまで窮屈感というものは感じないのだが。
　しかし何だろう、ほんの少しだけ、いつものエアナとは違う何か違和感を感じる。やはりこの、いつもと違う距離感のせいなのだろうか？普段あまりしっかりと見ることの出来ない雲を纏ったふわふわとした洋服も、手足に付いた可愛らしい雲の飾りも、雲のようにふわふわとした白のような、水色掛かった色をした髪の毛も。何処をとってもやはり特に何も変わったところは無いように感じるのだが——と、俺があまりにもぼんやりと、しかも今語ったようにエアナの全身を舐め回すように見ていたせいだろうか。またぺたり、と額にひんやりとした何かが触れる感触がした。それはどうやら、エアナの小さな、小さな掌だったらしい。

　エアナの眉が、八の字に傾いていた。
　嗚呼、先程感じた違和感というのは、エアナのこの表情だったのかもしれない。
　
　普段からポーカーフェイスで、他人の事など全く興味が無く、——いや寧ろ、興味を持つ必要性というものが解らない、抜け落ちている——出会った頃のエアナはまさにただ、“其処に居るだけ”の存在であった。
　最近はどうやら仲間意識、というものが出て来たらしく、エアナと同じく俺と契約を交わしたエンブリオ達——白銀の狼、ケールと、人になることを夢見て、そして人と成ったホワイトタイガーの少年、環には、ちょっとずつであるが、興味というものを持ち始めている傾向がみられる。特にケールとは、一度自分の気持ちをぶつけるといった、昔のエアナには考えられないような事を俺がひっそりと隠れて観察していた時にやって退けており、それ以来すっかり打ち解けたように思える。
　しかし——、これはちょっと、嬉しいかもしれない。不覚にも。
　「興味無い」「存在がウザい」「どうでもいい」
　昔のエアナは口を開けばそんな事ばかり言っていたのに、一揆に参加して、仲間と協力して何かを達成するという初めての経験をし、契約エンブリオが増えた事により初めて経験した、拒絶——そこからの、和解。どれを取っても、興味の抜け落ちていたエアナにとって、それらは興味を引き戻すには十分過ぎるくらいの出来事だったのかもしれない。いや、そうだったのだろう。
　じゃなければ、ただ机に突っ伏して暫く動かないくらいの俺に対して、エアナのポーカーフェイスが崩れてしまう事など——ありはしないのだから。

　未だ眉を八の字に傾けているエアナに、俺は極力心配を掛けないよう、口の両端をくいっと上げることで柔らかく微笑み、そう告げることにした。ちょっとだけ手を伸ばせば届く距離にエアナはまだ漂っていたため、そっと手を伸ばして、ついでに頭を人差し指でちょいちょい、と撫でてやる。しかしどうやら、まだ心配は抜け切らないようで、眉はまだ八の字に傾いたまま——そこにちょっとだけ、“不満”の色も伺える。

　先手を打つことに成功した。エアナはまだちょっとだけ不満そうだったが、心配している相手が大人しく寝る、と言っているのだがらそれ以上望むことは無いらしい。
　俺は机に手を付き、「よっ」とうっかり掛け声を口にしながらも、座っていた椅子から幾分振りかに立ち上がることとなった。
　どれだけ座っていたのだろう？いざ立ち上がってみると、足に力が入らないのが解る。だがしかし此処でうっかりよろけてしまったものなら、心配症MAX中のエアナの事だ。恐らくは俺がベッドに無事に辿り着くまでの間、ずっと側に居るなどと言い兼ねない。ここは必死に耐え、しかも耐えているという素振りを見せないのが大事だ。——よし。

　乗り切ったー！
　話をしている間に、カギ括弧——いや、L字の形と言った方が解りやすいか？その形から中々抜け出せないでいた足も漸く力が入り、ピン、とまっすぐ伸ばせるほどにまで回復していた。ついでに、同じ体勢を続けていたためにすっかりと凝ってしまった肩や腰、背中といった場所を少し解そうと、身体を捻ってみたり腕を前に伸ばしたり、頭上に持ち上げてみたりする。ボキボキ、と身体が軋む音が耳を付いた。自分では精々十分程度座っていたのだろうと思っていたのだが、もしかしたら一時間以上、この椅子に座っていたのかもしれない——

　お休みなさい。
　互いにそう挨拶を交わして。
　昨日よりも“更に”重くなった身体を引きずり、俺はお風呂場に向かうのだった。









　*

　*

　*

...NEXT

そして女の子と見間違って驚いたという言葉にはくすっと笑って顔を覗き込み。

青年の優しげな風貌を驚いた風に見つめ返す。

悪戯っぽく笑うと差し出された手を握り。
彼の少し乾燥気味の手に気付くと、そのまま取り上げて至近距離でじっと見つめる。

言うと自分の荷物をがさごそと漁り、植物から作った保湿用オイルの入った小さな瓶と、ジンジャーマンクッキーの入った袋を取り出して差し出す。

にっこり微笑むとそう言い。
打ち解けてきたのか、いつのまにか丁寧語がすっかりなくなっている様子だ。