敗残。
　そう呼ぶのに相応しい有様だった。
　中でも、最初に倒れた呪術師の容態が一番酷い。
　「一旦、退こう」と、呪術師は誰よりも先に口にした。最初に立ち上がり、自らの足で歩き、ディアリアドを殿に残し、呪術師は常と変わらぬ歩調で仲間を先導した。
　戦線の維持だけなら、ディアリアドには可能だった。
　元より体の作りが違うのもあるが、逃げ回りながら、最後まで彼を治療し続けたクローシェの働きも大きい。
　撤退は成功した。魔物の群れを振り払い、仲間の元へディアリアドが駆けつけた時には、呪術師は再び倒れていた。

「……ねぇ、『ルド』？　僕を置いて行きなよ。君になら解るだろう？　僕が倒れた時に、君の動きが鈍ったのは、偶然じゃあない。僕が意識を手放したら、『ああいう風になる』んだ。僕を『追い掛けて来るもの』は、そういうものなんだ」

　肩に担ぐように、抱えられた背中側から、呪術師はそう言った。
　少なくとも、ディアリアドには解る。
　呪術師が倒れる姿は、二度見ていた。だが、今回の倒れ方は、明らかに今までとは違う。
　骨の魔物の頭蓋が、少年の脇腹に減り込んだ時に、何かが折れる音がした。その瞬間に、周りの空間ごと、意識が持って行かれるような感覚がした。あそこからだ、勝てる筈の戦局が、崩れ始めたのは。
「……俺には解らないな」
　ディアリアドの答えは、簡潔だった。
　少年を抱えていない腕で、冬花を支えながら、森の中を進む。
「喋ってないで寝てろ」
　いや、進んでいるわけではない。『気配から逃げている』と言った方が正しい。
「——水の匂い、音。こっちの方です」
　クローシェの声。少年は、後ろ向きに流れていく地面を眺めながら、灰色の瞳を伏せた。
　森の中で暮らしてきたのだ。彼女の自然に対する嗅覚は、信用に足る。
　呪術師の体は、大した重さではない。そもそも、普通に歩き回っている方がおかしいような細さなのだ。少年の咳き込む声。ディアリアドの肩が、それに応じて小さく揺れる。ゆっくりと持ち上がった百合のような片腕。
「……君達は、間違っちゃいない。『詰め路(クロック)』は通っていた。『瑕疵(クラック)』があるとすれば『僕自身』だ。だから、僕を置いて行け、ルド。魔物ならまだいい。今の状態じゃ『人狩り』からは逃げ切れない。君なら、『二人までなら護り切れる』だろう？」
　言葉の、最中。ぱきり、と、何かが折れる音が聞こえた。持ち上がっていた腕が、行き場を失ったように、下がる。
「お前は」
　青年の声は、簡潔だった。
　息が、長く続かないのだ。旅慣れた探索者と言えども、体力は有限だ。
「俺達を、呪いたいのか？」
　短く、一歩を踏み締めるように、青年が息を吐く音が、呪術師の耳元にだけ届いた。
　ディアリアドは、『俺』ではなく、『俺達』と言った。
「……『呪いたい』、か。考えた事も無かったな。僕にとっては、それは、『手段』であって、『目的』では無かったから」


「言う通りお前が『瑕疵』なら、捨てても連れてても、同じだ。どっちにしたって呪われるなら、俺は『目星』を取る」
　水の音。冷たい空気。先導するクローシェには見えない。何処で何時折れたのか、冬花が見た呪術師の手の小指は、骨が折れ曲がっていた。
「……ははは……っ、君は、残酷だ。そんな事を言われたら、僕は、『僕と君達の間にあるもの』を、もう『縁』と呼べなくなってしまう」
　伏せた、視線。墨色の前髪が、灰色の瞳を覆う。口元が、自嘲的に、弧を描いたような気がした。
「……捨てていけばいいのに……『絆』が、出来てしまった。もう、君達が僕から逃げられないように、僕は君達から逃げられない」
　青年は答えない。
　先導する魔女も、寄り添う少女も、呪術師の言葉を否定しなかった。
　視界が、拓(ひら)ける。
　川の流れ。ディアリアドが少年を手近な樹の側へ下ろし、少し離れた場所へ体を引き摺っていく。
　そこにクローシェが駆け寄ってくるまで、呼吸幾つかの間も無かった。

「……『俺の分』は、言ったからな。他人のそれを背負うつもりもその権限も俺にはない、あると思わない。自分で決めろ」
　去り際に、ガレーナと翡翠が交錯した。
　呪術師の瞳を、ディアリアドの瞳は避けなかった。

「……ソルトさん。パーティーから抜けるつもりだったんですか？」
　青年と擦れ違うように、少年と少女へ駆け寄った魔女は、間の抜けた声を上げた。
　答えるよりも、腕を取られる方が早かった。
「呪うとか呪われてるとか……難しい事は分かりません。でも私は自分の感覚を、直感を疑ったことはないんです。今も」
　暖かい、光。
　折れた指の骨は、すぐには治らない。それでも、少年の腕から、痛みは引いていく。
「私は逃げられなくて構いません。逃げる気もないです。……でも、逃げないでくださいな。ソルトさんが仲間と、『友達』と思ってくださるなら」
　触れた指先。黄昏色と鈍色が交錯する。
　呪術師の顔を見て、クローシェはふわりと笑った。

「最初の、時。何も知らないまま、ソルトの手に、手を伸ばしたわけじゃない。……『視えて』いなかったものも、『視た』けれど、あなたが悪いもので、悪いものじゃないという認識は、変わらない」
　少年の、近く。
　泣き言も言わず、歩き続けた少女は、蹲るように屈んだまま、声を上げた。
　その声は、少し掠れていた。それでも、少女は目元を拭い、顔を上げた。
「……だから、……ソルトが寂しくなる事は、ないと思う」
　潤んだ視線と、虚ろな視線が交錯する。
　呪術師を『悪いもの』だと解っていながら、冬花はそれでも『寂しくなる』と言った。

　仲間の視線を避けるように去っていくディアリアドの背中を見送りながら、呪術師は、少しの間だけ、顔に薄っぺらい微笑みを貼り付ける事を忘れていた。
「……全く、君達は、本当に、どうしようもない『お人好し』だ。これじゃぁ、どちらが『呪われてる』のか解らなくなってしまうよ」
　ゆっくりと、細めた瞳。
　幹の太い樹に背を預けたまま、少年は肩を揺らした。
　咳き込むような、頷くような、おかしな笑い方だった。

「……知ってるかい？　この世界で一番強い『呪い』はね、君達の言葉では、『愛情』って言うんだ」

　木漏れ日が、差し込む。
　遠い視線。呪術師は、新しい友人に囲まれながら、古い友人の事を思い出していた。

　言いながら、胸元を押さえる。ペンダントが変わらずある事を確認して、自身のすぐ脇に浮遊する小さいものを見やった。鉄の色、もう片方、大地のそれは未だ見えない。
　

　『消滅』した、などということは、ないだろうが——
　

　呪術師は、暫くの間、口を噤んでいた。
　少なくとも、もう「僕を置いて行け」とは言い出さない。
　ひたりと、仲間の青年の背に体を寄せ、大人しくその歩調に揺られている。

　顔を眺めれば、常の微笑みは、貼り付いたままで。

ルドの言葉に頷く。
先程の様なケースもあるし、人狩りがどこに潜んでいるかもわからない。

自分の知る姿とは違う森に、内心驚きを隠せないのは事実だ。そして。

浮かんだ疑問を緩く首を振り打ち消し、少しでも道を探す助けが出来ないかと
視線を仲間へと向けた。

青年の言葉に頷き。付け足した言葉は、…途中で小さく、頼りなげに。

途切れた言葉を拾い、首を傾げる。
眠る前の姿が嘘のように、彼も、彼の纏うものも、いつも通りに見えたから。
そも、掴みどころがなさ過ぎて、正しく捉える事は難しいのだけれど。

再び彼の微笑みを見つめ直してから、思い出したように歩み始める。
もう、逸れるわけにはいかなかったから。

　流石に、そう簡単には抜けさせてくれないか。思いながら得物を手繰る。
　

　疲労もある、怪我も癒えていない。何より荒事には欠かせない存在の片方が、まだ戻らない——思った、時。
　

　唐突に目の前に飛び出して来たそれに思わず身構える。すぐに『それ』だと分かった瞬間に安堵と弛緩、しかし柔らかい色をしたその背に何かを見つけて。
　

　包まれたそれに眼を瞬く。だが検分している暇はない、後でと、敵に向き直った。
　

　とん、と。
　数度、少年は、背負われた青年の肩を叩いた。
　親指の付け根。薄く、残る傷。

　少年は、笑った。
　常と変わらぬ、薄っぺらい微笑み。

ルドの声にはいつの間にエンブリオが消えていたのだろうと目を瞬かせ。
それをちらりと視界におさめ安堵の息を小さく吐くものの、
直ぐに気を取り直し、前を見据え。

すい、構える杖。やはり浮かぶ瞳の感情の色はいつもと少し違う。
そう。ここは森。長年慣れ親しんだ、いうなれば己の領域。
ならばもう仲間を傷つけさせまいという、確かな意思を持って。

最も場に溶け込んでいる青年のエンブリオを一瞥すれば、安堵に頬緩めて。
生き物と呼んで良いかもわからない動く白骨に向き直れば、溜息。

『痛み』は、良くない。……保てなくなるから。
鞄を地面に下ろし、流れた横髪を背に払う。
深い深呼吸と共に、風精と妖精を、傍らに呼び寄せた。

己の手を見下ろし、落とす声は、小さく。
何かに追い詰められたように、震える息を吐き出して。

　ああ、と零した。殆ど吐息と変わらないそれで、改めて認識する。
　鉢合わせか、あるいは捕捉されていたか。どちらにせよ、ここでこうしてという事に、それ以上の意味は無い。

　得物の感触を軽く、確かめて。意識して静かに大きく肺の中身を入れ替える。連戦は避けたかったが、仕方ない。
　
　——仕方ないと思った、それを読んだかのように、背負った『呪術師』がごくごく自然に、何の疑問を挟む余地もなく、背から降りて地を踏んだ。

　『常のように』その動作に対する認識が遅れる。遅れて、視線を向ける。既に自分より先へと立った呪術師の背が視界にある、表情は、窺えない。
　

　————ぱきり。

　『常と何ら変わりのない仕草で』、呪術師は背負われていた仲間の背から、ふらりと降りた。

　森林。
　相対した、四人。
　一見すれば、それは先日の戦いの再現にも思える。
　戦う。それ自体に、違いは無い。

　違いがあるとすれば、向かい合った相手は、『本当に人を狩ってきた』と言う事だけだ。

　『呪術師』は、一歩を踏み出した。
　緩く掲げた、腕。戦う前から、少年の姿は満身創痍だった。
　今にも倒れそうな細い体。ひらりと、振った指先から、ぱきり、と。何かが折れる音がした。

　また、一歩。