既に終わった過去の一幕である。




　夕日が差す仄暗い室内。
　研究室だろうか、幾つもの机とその上に雑多に置かれた精密機器と、男と女。
片や椅子に座りながら空を見つめ、片や明かりも付けずに本を読んでいる。
互いの存在を認識しているのか傍から見ても分からないほどに二人は自分の世界に熱中していた。
　
　「ふぅ」

　女が本を読み終わってため息一つ、それが合図のように男は立ち上がった。
女はボブカットを整え、ずれた眼鏡を指で軽く戻し、同じように立ち上がった。先ほどまで読んでいた本の表紙を男に向ける。

「君はこの本を知っているかい？」

　その本は、小説の中のとあるジャンルの開祖であり、ジャンル自体がそれほど有名ではないが、その中においてはそれなりに名を馳せているものだ。男はサングラスを——室内であるにも関わらずつけているそれを——外して、ちらと見てから言う。

「昔勧められて読んだことがある。文体がくどかった。で？」

　そうしてまたサングラスを戻し、青い瞳を隠す。端的に過ぎる言葉を聞いて女は不満げに、

「……内容の感想は？」
「つまらなくはなかったな。それなりの暇つぶしになった」

　男は再びあっさりと片付けた。仮面の如き無表情は、わずかたりとも歪まない。
ともすればロボットとすら疑えるその非人間さが気に食わないらしく、女は口を尖らせた。

「なんとまあ。それだけかい？　実に嘆かわしいね。私はあれを切欠にこの道を志したのに。共感とは人間を繋ぐもっとも重要な、」

　そこまで言って言葉の無駄を悟ったらしく女は話を途切らせる。そもそも、本題はそこではない。
それでも彼女は昔を思い出し、目の前の男を記憶の中の少年と重ねようとした。
しかし、既におぼろげな少年の笑顔は、仮面の形にすらならない。

　「……いや、いい。忘れてくれ今の君にその手の理解を求めるのも無粋というものだろう。さて、この本はサイバーパンクというジャンルでね。サイバーパンクの中には、記憶すらも情報として管理された退廃社会における人間の生と死を一つの観点として置いているものがあるんだが」

　もってまわった言葉遣いで、いかにも楽しげな声音で語る。男は反応を返さない。彼女の悲しげな瞳を見ても。

「そしてこの作品はそのジャンルの先駆者で、当然、源流としてその観点を内包している。例えば、記憶を含めた人格を全てRAM構造体として記憶したものは果たして自己たりえるのかという話だ」

　ある人間の神経系の活動を記録したものを、プログラムで走らせる。そうして生まれた存在は、その人格と記憶を主張する。
それは自己ではないのか。それとも、肉を持たないが故にただの記録でしかないのか。
女は沈黙を恐れるように、口早に話し続ける。

「私は否定するだろう。一個の人間というのは、肉体であり、精神であり、人格であり、記憶であり、神経であり、またその全てだ。意識を抽出したところで、それは意識だけのそいつという新しい存在だと、私は思う。——さて、君はどう考える？　記憶と人格だけの、それ以上先へ進めない者。それは、自己と呼べるのかな？」
「そんなもん、自分でなってみなきゃ分からないだろ。それ以外は全て憶測だ」

　祈るような問いかけに、逡巡一つなく男は答えた。
ただの世間話、架空の話に、自分は答えるつもりはないと答えた。

「君は、君が、それを言うんだね」

　女は言った。泣きたいし笑いたかった。そんなことは出来ないと知っていた。
記憶の中の少年が少女を呼ぶ。男は口を開かない。

「さて、あの作品に出てたRAM構造体は人格と記憶だけを記録していた。
肉体は一切存在しない。作中で構造体はその無感覚における感覚を嫌悪した」

　泣かない代わりに、笑わない代わりに、ただ顔を歪め、声音だけは楽しそうに、

「そして。例えば、過去を無限に収集する機能を持った存在がいるとする。
これは人格や記憶に留まらない、文字通り“ありとあらゆる”の過去を収集するとする。この世に存在した森羅万象、肉も骨も神経も獣も木も国も土地も。ではこの時、それはRAM構造体を超えて文字通りの“ありとあらゆる”の個を再現可能ではなかろうか？
そして、それに“再演”される一個の存在は、果たして自我を内包しているのか——」

　そこで女は唇を結んだ。男はそれを見て、一言、

　「……つまんねえ話だな」
　「ああ、そうさ。これはつまらない話なんだよ」
　
　女は笑えた。男は笑わなかった。




　既に終わった過去の一幕である。







　男は歩く。
砂にまみれて乾いた大地を、ただひたすらに延々と。
数刻前まで無駄口を叩いていた唇は真一文字に閉じ、その双眸はどこか虚ろだ。
その表情だけ見ても、極度に疲労していることは明らかである。
心配性の者ならば、この過酷な地でただ一人死んでもおかしくないとすら思える。

それにも関わらず、男の歩みだけは衰えない。
照りつける太陽も、絡みつく熱風も、吹き付ける砂塵をも一切厭わず、男は一定の速度で進み続ける。
黙々と……いや、男が、何かを呟き始めた。

　
　ゆらゆらとする景色のなかに、人影が見えた。黒ずくめの衣装がすごく目立っている。
この砂漠のなか、忍び足で移動しているようだ。周囲の様子を見ながら慎重に足を進めている。

言葉を吐き出しながら男は歩く。黒衣の女にじりじりと近づいている。
先ほどまでは距離があって気が付かなかったらしいが、男の声にばっと顔を向け、

女は叫ぶ。忍び歩きに集中し過ぎて、歩いてきた男の存在に今まで気が付かなかった。
果たして何者なのか。女は男を見据え、はっきりと口に出そうとした。

　女は噛んでよくわからないことを言っている。しかし、そのことを恥じたりはしなかった。
それよりも先に、男の不審さに気がついたからだ。ぶつぶつと呟き、両目はぽっかりと空いた空洞のようだ。
明らかにくたくたで、へとへとで、とても力があるようには見えない。しかし、では、その体から溢れている力は何なのだろうか。
彼女は、トキサメはそれなりの実力者だ。ネクターと契約したばかりの半端者は、束になっても彼女に敵わない。
たとえこの男が強力な人間だとしても、これほどの疲労困憊ではまともに戦えるわけもない。
外と内が、あまりにも乖離し過ぎている。

そしてそれより以前に、彼女には疑念があった。この男を見たことがある気がする。
どこでだ？　これほどの異質な雰囲気——疲労困憊で変わっているにしろ——は、一度見たら気持ち悪さで忘れないはずだ。
彼女は問う。

そうして、気づく。男の呟きの中身を。男に覚えていた既視感の正体を。

　…………はて、私は何をしているのだろう？　随分と頭がぼんやりとしている。
ふと、目の前の男に気づく。そうだ、この男に見られたのだ。秘密の作戦が台なしになる。

　陽の光の届かない森林を抜け、平原に出た一同。
久しぶりに直接当たる眩しさに目を細めながら、これより酷かった砂地の太陽を思い出す。
そして、おそらく砂地に消えたテラーのことを。

意外か否か、誰一人として探そうとは言わなかった。
わざわざ一人で行きたがっていたのなら、それを追うのは良くない。
それに関しては全員の意見が一致したのだ。

　彼らは平原を進む。