ENo.398 シェリー・クレドニアス＝スミス

宿には甘い匂いが漂っている。
どうやらイリーナが台所に篭って何かしているようだった。料理を任されているのはイリーナだったので、彼女が台所に立つのは珍しいことではない。では何をしているのかというと、
「関内君は入ってきちゃだめ！」
と、追い返されてしまった。拒絶されているというよりは、隠し事をしているような（イリーナの顔は慌てている中にも笑みがあったので、嫌われたとかそういうことじゃないのだろう、多分）雰囲気だった。もし嫌われていたら――わりと危機ではあるが。
どういうことかと首を捻るも思い当たる節もない。
手持ち無沙汰になったので何かめぼしいものはないかと街へと繰り出すことにした。食料だけじゃなく、日用品も買い足したい。ここエスタはのんびりした街であると聞いていたが、にわかに騒がしい。
驚いたのは街の通りにも俄かに甘い匂いが漂っているということだ。市場ではピンクや赤といった可愛らしい看板が立ち並び、いずれの店もこの匂いの元凶ともなる甘味を売っている。
「チョコレート……」
チョコレートが大々的に売り出されるイベントには心当たりが一つしかない。とはいえこの世界に暦は――あるにはあるが、僕には法則が理解できなかったし、その暦と僕の知識を照らし合わせてもそのイベントは結びつかない、と思うのだが。
釈明のようになるが、決して例のイベントでチョコレートを貰ったことがないだとか、そのような寂しい人生ではないのだ。毎年母親と二人の妹は『可哀想だからあげるわね』『お兄の為に作ったんじゃない。毒見よ』『お兄ちゃんの事だし、あげたらお返しが貰えるかなと思って』と言って手作りのチョコレートを……何だか悲しくなってくるのは気のせいである。勿論それだけではなく、小学校のときは女子にいくつか貰ったりもした。全員義理だというところには目を瞑っておく。何せこのイベントを楽しめるのは女子と一部の容姿端麗な男性陣だけであり、僕は勿論淡い期待と冷たい現実に打ちひしがれる側であるのであまり気乗りするものではない。
甘い匂いに追い立てられるように買い物を済ませ、これまた甘い匂いが立ち込める宿に帰ることにした。散々である。

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「あ！　帰ってきた」
イリーナがぱたぱたと軽快な足音で近づいてくると同時に、可愛らしくラッピングされた包みを渡された。
ああやっぱりか、と思うと、ちょっぴり意地の悪そうな雰囲気を含めた笑みを浮かべイリーナは言う。
「今日はねえ、バレンタインデーなんだって！　日頃の感謝を伝える日なんだよ。関内君知ってた？」
「……い、いえ。これ貰ってもいいんですか？」
「うん！　それは関内君のぶん！」
実を言うと薄々感づいてはいたのだが、空気を読んで何も言わず恭しく受け取ることにした。義理というよりは友チョコの雰囲気に近いが、可愛い女の子から貰えるのならばわりと何でもいいと思ってしまう。
「おお、帰ってたのか」
風早がイリーナのチョコを（ラッピングが僕とは色違いだ。僕は青で、風早はピンク色だった）手に現れる。その顔はいつもの余裕たっぷりの笑みというよりは嬉しさが存分ににじみ出たものだった。
「いやあ、儂も長く生きておるがの、ばれんたいん？　とやらは知らなかったんじゃ。新たな楽しみが増えるのはいいことじゃなー」
風早は大まかに言えば仙人のような暮らしをしていたらしい。それでは異文化にも馴染みがないとしても当然だろう。嬉しそうな笑みのまま、高すぎる高下駄を打ち鳴らして彼女は僕の肩にぐいと腕を回した。からかわれる時の定番スタイルになりつつある。
「それでな、聞いたぞ？　どうやらばれんたいんという祭りは日頃の感謝や思いを伝えるために贈り物をするとな」
「まあそういうイベントになりますかね……」
どこから知識を得たのかは知らないが、風早は自信たっぷりに話し始める。
「お主は気にならんのか？　儂から見れば師匠という立場だけでは無いような気がするが、まあ仮に師匠にしておくとしてーーその師匠が何を考え何を思っているのか、とか」
「…………何を言っているのか、ちょっと理解しかねるんです、け……ど……？」
雲行きがあやしくなってきた。僕が視線をそらす程風早は意地悪そうに話を重ねていく。
「この祭りは女子が思いを伝えるようになっておるんじゃろ？　儂とイリーナはまあ良いとして、うちにはもう一人女子がおるではないか」

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全く気にならないというのはかなりの嘘になる。
イリーナは『そういえば今日はずっと外に居るのかな』と言い、風早は『安心すると良いぞ、誰かに贈り物をしている所は見ておらん』とまあ有り難い話を聞くことが出来た。
いやでもあの人が、あの俗世間から切り離されたような考え方をもつ人が、このような有体に言うと低俗なイベントに乗り気であるとはとても思えない。万が一手作りのチョコレートでも贈ろうものなら天変地異が起こる前触れにしかならないのではないだろうか――恐らく、アルバートとかいう男の場合だったとしても、だ。
アルバートという男性について、僕の知っていることは何も無い。
強いて言えば、魘された彼女のうわ言は必死そのものであった。ただの友達、とかでは無いだろうということは僕にすら分かる。ならば家族は、という考えに関しては、姉のことを名前で呼んでいなかったことからも望みは薄い。ならば一体アルバートとはどういう存在なのか。
あの時思わず握り締めてしまった手の感触を思い出し、そのまま僕は頭をぐしゃぐしゃに掻き回す。
「……い、いやいや、僕は何を考えてるんだ……」
イリーナから貰ったチョコレートを口に放り込む。頭を使う時は糖分が良いというが、それによって答えの出ない思考が片付く訳でもなかった。
バレンタインデーの贈り物。確か日本がチョコレートに限定しているのは製菓会社の陰謀であるとかないとか、そういう話を聞いたことがある。他国ではそもそも愛を伝えるというよりは感謝を伝える日であるのだとか。眉唾程度の知識を掘り返しながらも僕は例年通りの淡い期待を寄せるしかなかった。
淡い期待の後に待っているのは得てして悲しい現実であるということは、これまでの経験則で分かっている。
「はあ……」
顔を合わすのが憂鬱でならず、僕は深いため息をついた。

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「追加の依頼、です……」
「何だその窺うような態度は」
この人の外面は鉄か何かで出来ているに違いない。これだけ街が浮ついているにも関わらず彼女の手に持つものは可愛らしい包みでもなく使い込まれた金槌だ。腰が引けてるぞ、と指摘されてしまう。
作業している傍らには黄緑色の包みがあった。封を開けた形跡もある。イリーナだ、と僕は瞬時に判断する。
「……いえ、えっと、武器なんですけどね、爪？がいいらしくって……」
「爪……鉤爪のような感じか？　そうなると銀では強度が心許ない、な」
シェリーは材料を検討しながらも、金槌を振るう手を休めない。杖の先端に鋭い突起を付ける。多分それで刺せるようにもなっているのだろう。
彼女の仕事を眺めていると、決して武器として型通りの物を作るのではなく、様々な応用が利かせられるように配慮してあるのが分かる。杖でも時として槍のように、剣であっても身を守れるように。戦いは常に臨機応変であるという事を、彼女は身を持って体験しているからこそこのような考えが思い浮かぶに違いない。
等間隔に響いていた金槌の音が止むと、美しい光沢を放つ杖が出来上がった。先端につけた飾り輪がしゃんと響いた音を立てる。風早の持つ錫杖に似ている作りだった。
「……」
至極真面目な顔で歪みはないか、狂いはないかと点検する彼女の顔を、僕はじっと見つめていた。
彼女は一度頷くと、それを布に包んで置いた。それを届ける役目は僕だ。ひと段落した所で大きく息を吐いた彼女は、一度その場を片づけ始める。次の依頼は恐らく明日やるのだろう。
金槌、鑢、物差しや鋸に至るまで様々な道具があった。最初に見た時よりも物の種類が増えている。妥協を許さない彼女であるからこそ、こう言うことにも手を抜かないのだろう。どれも手入れが行き届いている。そんな道具にぶつかってことりと音を立てたのは、精製された鉱物であった。白い光沢が美しい。
「なんですか？　……銀？」
「それくらい分からなければ困るぞ」
正確には純銀ではないが、と付け足すと、彼女はさっとそれを拾った。その大きさはシェリーの手のひらに収まるくらいだった。先ほどの武器に使っていた残りだろうと推測できる。
変わった点と言えば、その銀が円形に既に成形されていることだった。有り体に言えばブレスレットのようだった。綺麗に磨かれたそれをシェリーはひっくり返しては眺めていた。先ほど武器を点検しているのと同じ顔つきで。
「……関内君」
「はっ、はい」
名前を呼ばれて無意識に背筋を伸ばす。呆れた顔はそれでもいつものような怪訝そうな顔ではなく、少し柔らかみが見え隠れしていた。

「手を出すといい」
「？　はい」
手のひらを上にして手を差し出すと、「逆向きだ」といわれたのでひっくり返す。いつの間にか手袋を脱いでいた彼女の手が、僕の手首を包み込むように重なった。彼女の手は僕よりもずっと温かい。鍛冶業で使い続けるその手は胼胝や肉刺でいっぱいだったけれど、僕よりも一回りか二回り程小さい。
手首に重みを感じると、先ほどのブレスレットが僕の手首につけられていた。とっさの事で頭が上手く理解出来なかった。そのブレスレットと彼女の顔を僕は交互に見る。呆れながらも彼女の顔は穏やかだ。ブレスレットも少し太めのもので、彫刻や装飾が無い分作ったその人の技量が如実に現れている。勿論その技量については申し分ないことは僕が一番知っていた。彼女の手の温もり故か、ほのかに銀は温かい。
「あの、あの、これって」
「君はどうも安物の装飾品ばかりつけているからな。少しは身の丈にあったものを選ぶといい」
確かに僕の装飾品は目ぼしい価値があるものでもないのだが。
「いや、えっと……その」
「……何だ。一日過ごしておいて今日が何の日か知らないのか？　イリーナが悲しむぞ」
僕が固まっている間にも彼女はてきぱきと片付けを終えてしまい、颯爽とその場を立ち去ろうとしていた。
壊れかけたボロのコンピュータがようやく動き出したぐらいのタイミングで、僕ははじかれたように顔を上げる。
「あっ……ありがとうございます！」
「本当は料理でも作れたら良かったんだがな。……いや、違うか」

「私なりに、君には感謝してるんだよ。これからも宜しく頼むぞ、関内君」