ENo.1775 ジル・フェン・イクス

アンジニティからの脱出方法を探るため、ネフィルと行動を共にして大分時間が過ぎた様に思う。
珍しく早々に寝入ったネフィルから離れ一人見張りと火の番を務めるジル。
通過したドネスクの街でも有用な手がかりは得られなかった。
情報を得るどころか荒れ果てたその地では足をとめることもままならず、
早々に必要なものの補充をしてさっさと通り過ぎることにした。
また以前のような厄介事をネフィルが持ってくるかも知れないし、これから先の道は
中々厳しい難所が続くという噂が囁かれていたから、余計な気力をつまらない事で浪費したくはなかった。

枯れ枝を火の中に投げ込んだジルに傍らに置かれたリュートのマリアが声をあげる。

「ねぇ、どうしてもネフィルを愛してあげる事は出来ない？」
「いい加減その話題も飽きた。愚問だな、答える必要があるのかね。」

冷たくそっけないジルの返答にそれでもなんとか食い下がるように言い寄る。

「でも…ネフィルの気持ちは本物だし、あの子はジルのためなら本気でなんでも出来ると思うよ。
　それこそ死ねとジルが言えば躊躇いなく死ぬかも知れない。そんなに想ってくれる相手に対して
　何か返してあげても罰は当たらないんじゃないの？このままじゃネフィルがあんまりよ。」

糾弾するマリアに対してジルはうんざりしたように大きなため息一つつく。
なんで自分の気持の問題を他者にこれほどまで何だかんだと言われなければならないのか。
全くもって理解出来ない、お節介にしても少々このところのマリアは目障りだ。
いっそ機を見て消すことも視野に入れようとぼんやり考えながらジルは気のない返事をした。

「マリア、君はそうやってすぐ弱い立場にあるであろうと勝手に思い込んで他者に入れ込む癖が
　あるがそれは己の身が充分助けられる力のあるものがすべきことだよ。全く学ばないな。　
　自身が今何処に立っているかを知らないで行動するものは崖から転がり落ちて死んでも文句は言えまい。」
「あたしのことはどうだっていいのよ、一度死んだようなものだしあの程度のことで変わってしまったら
　それはきっとあたしじゃないでしょうし。それよりもネフィルの事よ。もっと優しくしてやれないの？」
「くどいな、優しくしたことで私にどんな利益がある？あいつと一緒にいるのはこの世界から出る手段を
　探るためだけで、別に機嫌を損ねて嫌われようとも私は構わない。
　大体、君はネフィルのことばかり肩を持つが真に弱い立場にあるのはこの私だ。自分が与えられるはずがない物を
　ネフィルにも君にも強請られる。無い袖は振れないだろう。いい加減にしてくれ。」

勿論人間のように振舞って愛しているように”見せかける”ことは出来る。
だがネフィルやマリアが言っているのはそうではない、本当の愛を与えろということだ。
それだけはどうやろうと悪魔のジルには到底不可能な話だ。
何故ならジルが持っているものの殆どは偽りばかりで本当に真なるものがあるとすれば
それは自分の正体と分霊を統括する根源くらいしかないからだ。

「金輪際、愛だの何だのの話はしないでくれ。次に何かネフィルとの関係に口を挟めば
　そろそろ君の処遇も改めさせてもらおうか。」

話を切り上げるため脅し文句をけしかけて、黙らせようとするがこれで黙るはずが無いのがマリアである。

「いやよ、だってネフィルにはきっとあんたしかいないんだから！
　彼の世界の中にはきっとジルしかいないんだから、唯一人と縋ったりすることがそんなにいけない？！」

思いの外、マリアの声が大きく夜間に響く。一瞬遅れてはっと息を飲んだ音がする、マリアが自分の声を恥じ入った。
寝ているネフィルを起こしてしまったかも知れない。いやそれよりも目前のジルの顔からいつもの
貼りつけたような薄い笑みが消えて、無機物のように硬い、感情が一欠片も差し込まない表情でじっとマリアを見据えていた。
しまった、ついに地雷を踏んでしまったかも知れない。悪魔の冷たい眼差しに射ぬかれながら
マリアは体温など無いはずなのに急速に自分が冷えて震えが止まらなくなった。あ、ついにあたし本当に死ぬのかな。
ゆっくりとジルの手がリュートに伸ばされかけたその時、無表情のジルが片眉を上げて後ろに振り返る。
ネフィルの寝顔をじっと見つめたまま、何か嫌な音を聞いたように顔をしかめている。

「…っなに？！どしたの？！」

このまま機会を逃せば一生喋れなくなるかも知れない、息を詰まらせていたマリアは吐き出す様に声を上げて尋ねた。
そっとジルが唇に人差し指を当てて黙れと命じる。それだけでマリアは素直に従った、今度逆らえば本当にどうにかされる。
何か微かな音を逃すまいと聞き入って集中しているようなジル、
彼はネフィルの傍によるとじっと顔を見つめ左手で相手の額を撫でた。この突然の行為にマリアが驚いた。
声を上げないでいられるのが奇跡だ。そのままジルはじっと何かを盗み聞いているかのように気配を殺して
ネフィルの額に手を当て続けた。

それから暫くして、なにかすっかり終えたかのように満足した笑みでさっさとネフィルから離れる。
何が起こったのか是非聞きたいが聞いてまた怒りを買うのはごめんだし、どうしようか迷ったマリアはそれでも
ジルに尋ねた。好奇心を押し殺して生きることはもはや彼女には不可能だった。

「…何だったの？今の。」
「天使共がネフィルに接触を図っていた、どんな話題か興味があったから聞かせてもらっただけだ。」

懲りないマリアを鼻でせせら笑いながらもジルは答えた。更に手近な枯れ枝を火に投げ込む。ぱちりと火が爆ぜた。

「…天使、ってなんで？どんな話題？ネフィルに何の用が？」

急な話で驚いたマリアが矢継ぎ早に質問を重ねる、言ってしまった後でまた先ほどの恐怖が蘇ってしまった。
だが幸運にもジルはそれ以上マリアをどうこうしようとは思っていないようだ。
表面上穏やかな口調でマリアに話しかける。

「どうやらアンジニティを出る頃に私は天使共に殺される予定らしい。ただ内輪もめが起こっていて
　私を改心させたい奴らがネフィルに密告したようだ。馬鹿な真似を…」
「え、それって…ちょっと大変じゃない？！ジル、殺されちゃうんでしょ？！」
「声が大きい。今すぐという話ではない、アンジニティが各世界から断絶されていることが幸いして
　向こうもそう迂闊に手が出せないようだ。それに私が消滅した所で…」
「…何？」

押し黙ったジルに不安を感じてマリアがその先を促すが、ジルはにやりと笑っただけでそれ以上は何も言わなかった。

「何だ？私が死んだら君は晴れて自由の身だ。もっと喜んだらいいじゃないか。」

くつくつと嫌な笑いで皮肉るジルにマリアは複雑な思いで答えた。

「そんな事言ったって…身近にいるやつが死ぬだの何だのってなったら誰だって堪えるよ…。」
「偽善者め、まぁ君は勝手にそうしていればいい。それよりも重要なのは天使側が明確に
　”こちらが外に出ることを想定して”対策を講じてきたことだ。つまり、今進んでいる道のりは
　おおよそ間違ってはいないということがはっきりした。朗報だぞ、アンジニティの障壁は確かに破られている
　可能性が高くなってきた。」

先ほどと打って変わって嬉々とするジルを見ながらマリアは不安そうにつぶやく。

「でも、アンジニティを出たら天使さまにジルは…」
「私がただで死ぬはずが無いだろう。それなりに考えはある。それにネフィルも命を賭けて私を守るそうだから
　お言葉に甘えて私の盾になってもらう。」
この発言に噛み付かないほどマリアは臆病ではなかったので

「ひどい！あんたネフィルの人生なんだと思ってるのよ！最低！」
「先程ネフィルは私が死ねと命じれば死ぬと言ったのは君だ。
　本人が私という存在を自分の意志で狂信しているのならそれは彼にとって幸せなことではないかね。
　君の言う口先の愛などより余程私の行いのほうがネフィルにとって優しいよ。」

噛み付かれたことも意に介さず、ジルは笑ってそう言い放った。
もはやこの悪魔に何を言っても無駄だと思い知って、それでもなお自分には口を開くことしかできないのだからと
勇気を奮って言葉にしようとするマリアだが、上手く言葉が紡げ無くなった。
先ほどと同じようにジルが妖しく笑って唇に人差し指を当てていた。
黙れの合図、マリアに呼吸器官はないのだけれど、息が詰まる。胸もないのに苦しい。
ジルに向けた怒りが急速に行き場を失って霧散していく。相手は満足気にマリアに笑みを向ける。薄暗い花のような笑い。
それはとても恐ろしい感覚でマリアは何も抵抗することができないまま真っ黒な泥沼に沈んでいくようだった。