ENo.1775 ジル・フェン・イクス

あの夢の一件のあとからネフィルの様子は変わったように見えた。
だからと言って特に何かする気もなく普段通りジルは過ごしている。
マリアに至っては昨夜の仕置が効いたのか物言いたそうに息を吐くがそれが言葉になることはついぞなかった。
次の旅への支度を整えながら火の後始末を任せていたネフィルが口を開いた。

「…そろそろほとぼりも冷めてるだろうし、一度街まで戻らないかい？」

どこか、否定されるかも知れない可能性を考えて、小さくなっているような声だった。
勿論理由は解っているが、指摘する必要も無いので何も分からないふりをしておく。

「おや、急にどうした？」
「この先は深い森と山岳が連なっていて危険だし、慎重に進んだ方が良いんじゃないかと思うんだ
……僕のせいで十分な準備も出来なかったし…」

ふむ、ともったいぶった声を上げる。どうやらネフィルは思ったよりも以前の街での失態をひどく心に残しているらしい。
どうでもいい、もっと苦しめばいいのだ。そんな事をおくびにも出さずジルは声を上げる。

「まぁ、君のせいかどうかはどうでもいいとして、確かに準備不足ではあるな。よかろう、進行は君に任せる」
「えっ…うん、ありがとう、ジル。」

ネフィルが驚いた顔でジルを見る、てっきり却下されるかも知れないと思っていたのだろう。
見れば見るほど間抜けな顔でネフィルはいそいそと荷物を持ち上げる。

「じゃあ、一度戻って態勢を整えよう。人狩りにも注意しないとね。」

人狩り、ねぇ。君が気になっているのはそれだけではないんだろう、全く馬鹿で愚かなネフィル、愚鈍なキメラ。

「なぁに、もし連中に会っても君が守ってくれるんだろう？」

ジルはにやにやしながらそう言葉を投げつけた。

「ん…え？それは勿論だけど…」
「死ぬ気で守り給え、君の有能さ次第では少々ご褒美を与えてもいい」

そういい置いてジルはさっさと街の方角へ歩き出す。慌ててネフィルが後を追いかけた。
無論褒美など僅かも与えるつもりはない、死に体の様相になったネフィルを足蹴にして
さっさと自分だけアンジニティを脱出する心づもりだ。
もし本当にそれが現実になったらどれほど心が晴れ渡るだろう。今までの鬱憤を盛大に晴らして
ぐちゃぐちゃのミンチになるまで切り刻むのも面白そうだな、などと少しも顔に出さずに思いめぐらす。

「ジル！？な、なにかあったのかい？？」
「別に何も。君こそなんだ、血相を変えて」

あまりの相手の変化についていけないネフィルが言った。だがジルはそっけなく返すだけだった。
なにか言いたげに戸惑いもぐもぐと口を開けたり閉じたりしながら歩いていたネフィルはやがて意を決して言った。

「いや……任せてくれ、ジルは僕が守るよ！」
「ついでにそのまま死んでくれるといいのだがね。」

聞こえても構わないかのようにジルは平然と言い放った。足音にかき消されたかはたまた
ネフィルの都合のいい耳のお陰で届かなかったかは判らないが相手は特に気にした様子もなく次の言葉に移る。

「…ところで…僕、今日寝言とか言ってたかな…？」
「…さぁ？言っていたようないないような。君の無様な寝姿など微塵も興味が無いのでわからないな。」
「うーん…そうか……ところでジル、天使はこの世界には入って来られるのかな？」

天使、という言葉を使うのには突然過ぎる。今まで天使のての字もあまり出ていなかったのに
急に話題に出してしまうネフィルはやはり阿呆だな。
何も事情を知らないふりをしてジルは訝しげに尋ね返す。

「…突然どうした？なぜ君がそんなことを気にする。」
「いや…天使がジルを狙っていると聞いて。敵の行動範囲が解った方が、警戒しやすいからね。」

ネフィルは本気で神妙な顔してそんな事をを言う。妙な浅知恵を必死にかき集めているのが余計に可笑しい。
自分で使い慣れていない言葉を使うのは愚か者のすることなのに。
腹の底で笑いをこらえながらジルはどうでもよさそうに答えた。

「さぁな。今までちょっかい出されてないことを考えるにそう簡単には世界の壁を越えられはしないだろう。特にここではな。」
「そうか…まぁどちらにしろ、ジルは僕が守るけどね。」

何やら納得したようだ。一端の騎士気取りがひどく滑稽だ。
ネフィル、君は守るんじゃないんだ。私の盾になって無様に死んでもらうのだよ。

「当然命をかけて、だな？」

目を細めて嬉しそうにジルは言った。ネフィルの命など虫けら以下だという思いを込めて。
それを知ってか知らずかネフィルはいつもの笑顔で

「勿論、そうさせて貰うよ。」

そう言い切った。ジルはこの従順な愚か者の選択を喜んだ。
「期待している、必ず応えてみせろ。」
勿論、ネフィルの死を期待している。という意味で。
「ありがとう…その時が来たら、必ず…」
感極まったように決意を固めるネフィル。それから二人はそれ以上話題には触れずに街への道のりを急いだ。