何かおかしいなとは思っていた。
何処を歩いても視界に軽い違和感がある。
これまで足音がしなかったような場所で、足音がたつ。
——存在に堪えきれないような軋みと一緒に。

気のせいというには、あまりにそれは集中的に起きていたものだから。
ぼくはマァムブ内を歩き回る日課を放っておいて、まずは外に出た。

しんしんと冷える空気。
もう、季節が秋を飛び越して、冬に差し掛かっていることを実感する。
すう、と吸う息は肺腑に鋭く突き刺さるようだ。
まだ真冬のそれのように澄みきってはいないような気がするけれど。
時間の問題だろうな。

体温を有さないぼくらは、吐く息が白く濁ることはない。
けれど、血潮を巡らせ常に熱を窶すいきものたちは、きっと今ここで白い息を吐くのだろう。

ふーっと長い息を、すっかり晴れあがり、高く高く青い空に吹き出してみる。
‥濁りは、しなかった。

「‥‥‥」

同じような身体に生まれつかなかったことを寂しいと思うことはある。
けれどまあ、もう落胆するほどではない。
‥こんな珍妙な事態にも陥らなかっただろうか、とはふと考えることはあるけれど。
見渡す限りの蒼天に、ぽつんと輝く太陽が目に痛い。

折角外に来たのだから、汲み置きの水ではなくて池のものなりで喉を潤おそうかな。
そう思って、仰いだ天から視線を下ろしたところで、ぼくはひとつの仮説にぶつかった。
その刹那は、動き始めてすぐに感じた違和感だったけれど、それはやがてじわじわと疑惑に変わり、確信へと至る。

そして、水の匂いを辿って駆けて数分。
静まり返った水面の水鏡がぼくらの姿を映して、はっきりした。
ここ数日まったく変化がなく、沈黙と維持を続けていた身体が。

急に、巨きくなっていた。

「‥」

樹高の高い筈の木々が、なぜか頻繁に頬を掠める。
それが一本や二本の例外などではなかった、というあたりから薄々そうだろうなとは思っていたけれど。
一体何がどうなっているのだろうか。
近々、何かしらの変化は起こるだろうなという推測はあった。
あったけれど、殆ど現状維持の形で只々身体が育ちました、というのはちょっと予想外だ。
変化があるとすれば、より意識のはっきりしている方に引きずられるものだと思っていた。
姉上と、第三の竜はいまだに深く混濁したままだ。意思疎通などが図れるとは思えない。
仮に姉上が望んだとしても、第三の竜が望んだとしても、現状維持というのは腑に落ちない。

何か他にかかった外力があったろうか‥？
言われた？願われた、望まれた？‥ちょっと記憶にない。

力を求められたことはあったけれど、それは身体や見目がしっかりするのとは別のことだ。
特にぼくらは此処に来てから専ら魔力の行使で戦闘を行っている。
身体を盾に使うことがあっても主役は専ら魔力の方だ。
望まれるなら、願われるなら、そちらが伸びる方がずっと妥当だし腑に落ちる。

そうでないなら、一体‥？

「‥‥‥」

湖に映る、今のぼくらを改めて見据える。
四肢がいくらか膨れ上がり、頭から天に伸びる角は二叉から四叉に割れ、
鬣を振り乱す姿は、見目から云えば、これまでよりずっと竜らしくある。
‥‥その付け根のひとつに、ばっちり花が咲いていなければ。

幾度も見続けた、赤い花。

台無しというか、なんというか。なんだこれは。

——生えた侭だと余計にあとあとの場が拗れてしまうだろうか。

抜いてしまってもいいのだろうか、などと考えていると、ひとりでに赤い花はほどけて散った。

此処の世界の根幹を支える花のように、鮮やかに映える赤の花弁は、ひら、ひらと水面の上に吸い込まれる。
静かに立った水面。
ぼくらが映る水鏡を霧散させるには、十分なものだった。

沈黙が痛い。
此方の記憶がないことは自覚をしており、だからこそ相手の心情は穏やかなものではないだろうと勝手に色々妄想したりして。
ぎゅ、と胸元で手を強く握り締め、暫く、黙っていた、が。

気を、つかわせてしまった気がする。
だから、初めはちょっとばかり無理にでも笑みを作って。

自分が何なのか、の話こそ、まだ出来ないものの、他愛もない話、所謂雑談程度は応じるだろう。
撫でていい？なんて不安げに聞いてみたりもするだろう。

マァムブ内の、些細な、平和な一コマ。

バケツたっぷりのおにく（仮）に眉をひそめる。
しばらくそれを観察していたが、試しにおたまですくって、少し舐めてみる。

そう言いながらも、一口、二口と口に運んでいる。

グリゴリにはさほど聞き馴染みのある言葉では無かったが、ある程度の想像はできる。

イースの爪が当たり、エンブリオの飾り紐が揺れると、グリゴリは何事か言いかけたが、当のエンブリオが爪が当たるか当たらないかの位置を行ったり来たりして笑っているのを見ると、何も言わずに口をつぐんだ。

（貴方が知っている香草だと理解し、嬉しそうに応える—）

小さな手で、クリストファーを指さして。