天真爛漫なクリスをどこか優しい目で眺めるアルヴィナの隣で、また声がする。

　そう、まただ。

　アルヴィナはそばにいる声の主にさほど驚かず、　しかし最大限の警戒をもって目をやった。

　同意を求めたのは、そのクリスのエンブリオ、エンジェルのジーンだった。
　彼女にとっての唯一のエンブリオでもある。

　軽薄な態度で挑発する天使を相手にするつもりはなかった。
　いや、相手をする余裕がなかったのかもしれない。

　彼女の一語一句、一挙手一投足が欺瞞にすら思える。

　ジーンの言葉の節々がまとう気配が「入れ替わる」。
　視覚化できそうなほどの黒で、周辺の空気までまとめて塗りつぶされた。

　そう言ってクリスのもとへと飛び去っていった天使の背を凍りついたように見つめながら、
　アルヴィナは彼女から「取引」を持ちかけられた日のことを思い出す。

　派手な装飾がほどこされている研究棟に見向きもせず、次なる目的地を目指すチハヤ。
　アルヴィナもこの場所に今深入りするつもりはなく、入り口付近の簡単な探索だけをすませる。

　
　アルヴィナの炎で服まで焼けたファルマの懐に、
　焦げ目ひとつつかない資料が入っていた。
　間髪入れずに拾いあげ、口をあけて文字通り咀嚼しようとするアルヴィナ。
　とくに意味はない。そのほうがほかの方法よりも格好いいからである。

　背後からどこかで聞いた声が響くとともに、
　取り上げたはずの資料が手元から消える。

　へらへらとした笑みを顔に張りつけた天使が、ひらひらと不作法に浮遊していた。

　ここは護りの森の奥深くにひっそりとたたずんでいた研究棟。
　クリスが侵攻しているはずの水辺とは地理的に遠く離れている。

　アルヴィナの心のうちが透けているかのように先読みを繰り返すジーン。

　親しげな視線のまま騙り続けるジーン。
　しかし、アルヴィナの頬をつたう冷や汗は多くなる一方だ。

　アルヴィナはクリスにはじめて出会ったころから、
　彼女のエンブリオのエンジェルにどことない違和感をいだいていた。
　クリスのことを妹か娘のように優しく見守るその姿は、
　まさしく天使の名にふさわしいものだったのだが……

　適当に角を留めたのではなく、しっかりと製本されている研究資料を、
　ジーンはトランプの山をシャッフルような手つきでさばく。目の奥だけが高速でぶれる。
　魔法のたぐいではなく、純粋な速読を行っているようだ。

　さきほどの読心も、さらに前の忍び寄りも。
　ジーンの挙動に独自の魔力は見られず、普段どおりのままだ。
　つまり……それらは彼女の純粋な「技術」によって実行されたものである。
　アルヴィナはそのように結論づけるしかなかった。

　ジーンの右手に数枚の紙が握られている。刃物で切るよりもきれいな切断面だ。
　これもまた、アルヴィナが気づかないうちに抜き取られたたものらしい。

　わざとおかしな声を出しながら資料のひときれを掲げる。
　びっしりと計算式で埋めつくされた横に大理石と人間とエンブリオが図示され、
　こまごまとした矢印でそれらが几帳面に関連づけされていた。

　当然、アルヴィナの関心事であると知った上での扇動なのだろう。

　うわついた声の調子はそのままなのに、
　微妙な語調の変化だけでアルヴィナにかかる重圧が倍増する。

　心臓をつかまれた。
　錯覚とは思えないリアルな感触にうめく。

　と思うと、声色が目に見えて暖かくなる。
　恐怖からの一瞬の解放で気持ちが前に出る。
　アルヴィナはジーンに感情を支配されているとはっきりと自覚していながら、
　自分が置かれた状態を変えられずにいた。

　あはははは、と和やかに笑うジーン。
　つられて口が緩みそうになるのをあわてて我慢する。

　最後の変化。
　その声には、もはや何の色も見えない。
　たたただ透明だった。

たいして気にした様子もなく、星詠みの少女は続ける

少女はそれだけ語ると、思い出したように訪ねる

何がしたいの？　という問いに対しモクは腕を組み、顎を引いた
目線は伏し目がちで深く考えているようだ

……しばらくしてモクラは顔を上げ、喋り始めた

淀みなく、ハッキリと　そうモクラは言った

貴方の話を聞いたグレンダは、すっと膝をつき目線を合わせた。

小さな少女とは言え、突然1人分の体重を背負った薙疾がたたらを踏む。

先ほどのクリスの話。
薙疾には断片的にしか理解できていなかったが……
この優しい重みも実際には存在せず、「薙疾が重く感じている」だけ、なのだろうか。

薙疾はクリスの両足に手を回し、おんぶの状態のまま語り始める。
後ろから抱きついているクリスには、彼女の表情は見えない。

かけられる声のトーンが落ちる。


その雰囲気から、クリスは賞金首を捕らえに行った日の薙疾の表情を思い出す。
クリスが自身の出自に関する真実を知った日でもあるので、他人を気にかけている余裕はなかったのだが……

思い返してみれば。
普段は明朗快活で、「強者と戦うのが望みだ」と豪語している彼女であれば、
巡ってきた機会にはもっとはしゃいでもおかしくはないはずだ。

そんな薙疾があの日に限っては笑いもせず、神妙な顔をしていた。

単純な彼女は……いや。

単純な自分であろうとする彼女は、そう言うと振り返って笑顔をクリスに向ける。

目の前でクリスが変化していく姿を見て、言葉がでない。

へなへなと座り込み、胸を撫で下ろす。