ある日の夜更けだった。
声が聞こえる。
私はその微かな声で目を覚ました。
遠慮がちな、か細い声。
外からだ。
そして私はその声を知っている。
溜息を吐き、私は夜着の上にガウンを羽織るだけの格好で自室を出た。
アズゥは眠っているようだったのでそのまま寝かせておくことにした。
向かったのは納屋だ。
そこで声の主は鳴いていた。

「ヴル、どうした」

鳴いているのはヴルだ。
恐らく、私に聞こえないように鳴いていたのだろうが
そんなものはばれないはずかない。
ランプをかざす私にヴルは驚いたようだった。
「どうした、どこか痛いのか？」
そう言ってヴルの体に触れ、怪我がないか確認する。
館に戻った時に一度確認はしていたが見落としていたのかもしれないと。
だが傷はどこにもない、ヴルも違うのか首を振った。
「どうした、なぜ鳴いていた？」
私にはヴルの言葉は分からない、しかしそれでも問うた。
私の顔を見て何かをいいたげな顔をするヴル。
しかしそのまま顔を伏せてしまった。
「怪我ではないんだな？」
その問いにヴルは小さく
「がう……」
と、返した。

（まいった……）
言葉が通じなければ何も分からない。
おまけに犬猫と違ってこれの種類は未だ分からない。
（書架の文献になにかあるだろうか）
そう思ってランプをその場に残して館へ戻ろうとする。
「？」
何かがガウンにひっかかったのか抵抗を感じた。
その何かを確認するために振り返る、すると。

「ヴル」

ガウンの裾を、ヴルが咥えていた。
軽く食む程度で、生地に傷をつけまいと。
「本当にどうしたんだ」
館へ戻るのを止め、ヴルの元に跪く。
そっと額を撫でる。
「やはり調子が悪いのか？」
ヴルの顔を覗き込みながら。
小さな鳴き声を返し、ヴルはまた俯いた。

本当に分からない、ヴルが何を言いたいのか。
言葉が通じれば……
（いや、今はそんな事を考えている場合ではない）
再度、立ち上がりヴルに背を向ける。

……が、

「……何がしたいんだ……」
またもやヴルにそれを阻止される。
お手上げだ。
深い溜息を吐いてその場に座り込む。
ヴルの目が不安に揺れている気がした。
（人間に当てはめるのは、どうかと思うが……）
私は、その行動を己に当てはめてみることにした。

今の自分……いいや、ちがうな
もっと昔……
そう、子供の頃だ

「ヴル、お前」
一つ、思い当たる事がある。
「……寂しいのか？」
一人になりたくないのか。
一人の部屋、一人の夜は時々理由のない不安に襲われる事があった。
幼さ故だっただろうか、それでよく私は父と母の部屋を
泣きながら訪れ、その寝床に潜り込んだものだった。
幼かった、あの頃。
「眠れなかったのか」
あれは泣いていたのか。
ヴルは何も言わず、私の胸元に顔を摺り寄せてきた。
多分、そうなのだろう。

「ヴル、少し歩くか？」
散歩に行こう、と私はヴルを誘う。
ヴルは戸惑いながらも、小さく返事をして立ち上がった。


***
一人と一匹で、草原を歩く。
館から少し離れた場所には、川が流れていた。
水は澄んでいる。
久しぶりに訪れたそこは、多少荒れてはいたものの
あの頃と変わってはいなかった。
川辺では丁度季節だったのだろう、ホタルが舞っていた。
澄んだ水が鏡のように天空を映していた。
まるで宝石のように。
その水面の様子をみて、ヴルは幾分陽気さを取り戻しているようだった。
恐る恐る水面に前足をほんの少し近づける、まさか水面の星を取るつもりだろうか。
その様子に少し安心しながら私は川辺の草むらを少し分け入った。

朽ちたベンチがぽつんと佇んでいた。
雨風に晒されたその小さなベンチは私が触れると脆く崩れ去ってしまった。
背後にヴルがやってくるのが分かった。
「ここはな、思い出の場所なんだ」
家族との。
私の傍に腰を下ろしたヴルに、己も腰を下ろし背を預ける。
天空を指差しながら
「わかるか？ヴル」
きっと分かりはしないのだろう。
けれど私は続けた。
父に教えてもらった事を、今は私がヴルに話している。
可笑しな話だ。

「あの星はな……」
ヴルは私の指す天を目を逸らすことなく見つめていた。
だから私は続けるのだ、この獣に通じているかも分からないまま。

今日が晴天で良かった。
あの頃見た星と、ヴルと見上げる星は
何一つ違いなく思えた。

闘技大会という言葉に耳をぱたぱたさせて反応する。

楽しいお祭り、位にしか思ってないのかもしれない。

不意に受けた衝撃によろけそうになるも、何とか踏みとどまった…が、それと同時に見知らぬ手に支えられた。
反射的に振り仰げばやはり見知らぬ顔。
しかしそれよりも身長差に瞬いた

からりと言いながらやんわりと相手の手を解いた。
その目は何か見定めるように、興味津々という様子で男を見ている。

視線の主へと言葉を返しつつ
声を掛けられたのが嬉しかったのか、長い耳はじっと相手に向けられている。

自身の頭頂に合わせた手と相手の身長を比べながら、つま先立ちでぴょこぴょこしている。

コロコロと転がってゆく果物、慌ててその幾つかを掴み、立ち上がると、丁寧な物腰の青年と目が合う。

青年の軽やかな立ち姿、そして隣に寄り添う赤く優しげな瞳の獣をしばし見つめ

差し出された果物を見て思わず首を振る

赤い獣の挙動を思い出し、なるほどピッタリと符号する言葉だと納得する。

言葉とは裏腹な、穏やかに語る声と表情に暖かい気分になった。

老人はやや首を傾げあの獣の姿を思い浮かべる。

誘いの言葉を貰うと老人は嬉しそうに笑う。