風は続いている。
　自らの弱体化に対しての理解がある分だけ、アイヴォリーの反応は早かった。やむを得ず寝床にした小さな囲いから出て声をかけられた時点で何が起こったのかをすべて理解したのだ。その理由までも。ただ、それだけのことを理解していても、前日の敗北によるダメージでこの状況を回避することが出来なかった、ということだ。

「ッ、仕方ねェ、メイリー、ヤるぞ！」

　振り返りながらダガーを抜き放つ。後から出てくるメイリーの進路を塞がないように半歩前に踏み出す。ブランチマンたちと彼女の間に自分が挟み込まれるように、そして彼女の後方が王城の門の方角になることを確認しながらアイヴォリーは姿勢を落とした。それから空いた手でメイリーが茂みから出るのに手を貸してやる。半ば引きずり出す形になってしまったのは、この場合仕方のないところだろう。

「マダ勝てねェ。切り上げるぜ。」

　小さなフェアリーを身体で隠すようにしながらアイヴォリーは小声で彼女にそう告げた。それだけの言葉で、視線すら交わさずにされた小さな戦術会議。それでもアイヴォリーにもメイリーにも、何をどうするかの迷いは一切なかった。

「──背を押し道を示す風乙女の指先──」

　アイヴォリーが囁くようにして美しい韻を持った亜人の言葉で紡ぐ。エルフたちが築き上げた魔術の中の小さな風の加護は、今でもエルフたちを滅ぼした男に力を与えた。彼らが編み出した“小魔法”、キャントリップと呼ばれるそれは、そのものに力を持たせることで自らの消耗なしに小さな恩恵を得るものだ。決まった手順で作られた丸薬に印を書き込むことで簡単に火がつく発火の魔術を仕込んだり、決まった音と抑揚で言葉を連ねることで少しだけ自らの身を軽くしたり。魔力の豊富なエルフたちにとっては少しだけ生活を豊かにする便利な技術でしかなかったが、アイヴォリーのように魔術に疎い人間にとっては全く別の恩恵があった。それを精確に模倣さえすれば、魔力がなくとも同じ効果を得られるのだ。そして、暗殺者としてでも優秀な記憶力を誇り、手先に限らず器用なアイヴォリーは模倣することが得意だった。
　風の力で僅かに身を軽くし、アイヴォリーがまず動く。自分の後ろで魔術の詠唱をする彼女の集中を邪魔しないように低い姿勢のままで敵の只中へ。滑るように間合いを詰め、中央の巌のような巨躯にダガーを突き出す。浅すぎて掠り傷とさえ呼べないような一撃から地を蹴って右へ。勢いを利用して顔の高さで肘を振り抜く。取り巻きの頬を掠めた肘を止めずに彼女に背を向けるまで振り向きながらしゃがむと、今度はブランチマンを挟んだ向こう側にいる女に飛び寄ってダガーを振るう。背後に足を蹴り出してブランチマンを牽制してからもう一撃彼女に加え、背中を向けたままでもう一人の女との間合いを詰め直して地面を叩き付けるように踏みしめて肩、むしろ背中を彼女にぶつける。一人に対して二回ずつ、都合六回の攻撃をアイヴォリーは一連の行動の中で、演武でも舞うようにして行った。
　彼の能力が減退されていなかったならば、その攻撃自体が十分な威力を持っていただろう。そうして繰り出される連撃のひとつひとつが相手の体勢を崩し、次の攻撃につなげ、完全に回避不能な一撃への布石となる。それこそが彼の戦い方なのだ。
　だが、その目的を果たすためには粗雑で無駄の多い動きだった。今の彼が出来ることは、目くらまし的に敵の中で振り回す、その程度のものでしかない。現に相手は誰一人致命傷を負うこともなく、姿勢を大きく崩された者さえ存在しなかった。ブランチマンは昨日そうだったように気を溜めこみ、取り巻きの二人は彼に負わされた以上に魔術で彼を傷つけてその血で自らの傷を癒す。

「マダだッ、疾風ッ！」

　自らの傷を確認することさえせずにさらにアイヴォリーが彼らの中で暴れる。だが、力を溜めた男の体当たりが昨日と同じようにしてアイヴォリーを捕えた。昨日の出来事を繰り返すように庭石に叩きつけられくずおれるアイヴォリー。

「ぼーっとしてちゃ駄目よっ！」

　メイリーの詠唱が完了し、彼女の周囲に生まれた魔力の塊が空へと投げ上げられる。それはめちゃくちゃに降り注いでそこにあったものを傷つけた。中央にいた彼女を含めてだ。さらに残った、傷をつけるほどでさえない小さな魔力片が地面に降り注いで派手に土煙を巻き上げる。

「ドゥルアァァッ！！」

　驚いたことに、というべきか、ブランチマンは土煙の中でも自らが捕えた人影に向かって突進した。目の前まで迫ってそれがメイリーではなく取り巻きの片割れだと気付いたがもう遅い。自らの質量を武器にするその牛のような突進は止められない。

「お願い……あなたの力を貸してっ！」

　腕を薙ぐように払うメイリーの動作を追いかけるように、土煙を引き裂きながら烈風がブランチマンへと向かう。だが、その男は風を受け止めるようにして正面から彼女へと突っ込んだ。風に切り裂かれながらも今度は狙いを過たず、ブランチマンがメイリーを弾き飛ばした。
　土煙が徐々に薄れていく。どれもこれもが派手に立ち回る代物だったせいで整備された庭園といえどももうもうと立ち込めるほどに砂が巻き上げられていた。
　鋭い眼光で彼女が飛ばされた先を睨む男。だが視界が利くようになってその顔が驚きに変わった。跳ね飛ばされたはずのメイリーがいない。慌ててアイヴォリーが叩きつけられた庭石の方へと目をやるものの、当然のようにして彼の姿も既になくなっていた。


「ヤレヤレ……イッテェなマッタク……。」

　恨みがましい様子でアイヴォリーが呟いた。無駄に腕をぐるぐると回しながら、案外何でもなさそうな顔で。

「ここまで来れば大丈夫かしら？」

　ようやく大きく息をつきメイリーが言った。こちらも大して痛手を負っている様子もない。
　派手に暴れ回り、狙い通りに二人は目的を達成した。といっても無難に逃げおおせただけなのだが。無論混乱の中で運良く倒せれば儲けもの、という目論見がなかったといえば嘘になるが、最初から彼らの目的はこれだった。

「逃げるバッカウマくなってもコマるんだケドねェ。」

　苦笑を浮かべながらアイヴォリーが呟く。それでもメイリーとの息が合ったことが満足なのか、昨日のような深刻さはどこにもない。
　城門の方角へと逃げ、入り口の辺りで別の方向へと進んだ彼らは川の辺にいた。硝子質の鉱石が多いのか、水の中できらきらと光を反射して輝くものが見える。水も澄んでいて非常に透明度が高い。籠手のままで片手を水に浸すと、すくい上げた水の臭いを嗅いでからアイヴォリーはそれを一口口に含んだ。

「まァ、大丈夫そうだねェ。」

　自らの水袋を取り出すと、温くなった中身を空けて新しい水を汲む。綺麗過ぎる水だが毒ではないらしい。むしろその水は仄かに甘かった。どことなく桃を思い起こさせるその香りは、この世界で重要だといわれたあの赤い花のそれと同じだった。
　暗殺者時代の過剰な服毒は、自らも用いる様々な毒物に対して耐性をつけるためのものだった。まさに毒を以て毒を制す、だが、無論その効果は利点だけを与えてくれるものではなく、むしろ問題の方が多い。見て分かる外見の変化はもちろんのこと、その忌まわしい習慣から解き放たれて長い年月が経った今でさえ、そして今後も自分が子孫を生せないことをアイヴォリーは知っている。それどころか、同僚の中には全ての体液に毒性が宿ってしまった者さえいた。そんな荒唐無稽なまでの“訓練”は、いまだにこうして、とりあえず毒見が出来る、という些細な恩恵をアイヴォリーに残していた。いまだに彼の身体は様々な毒物に対して耐性を持っているのだ。もっともそれは毒見くらいにしか活用されないのだが。
　メイリーの分も水袋を満たし、アイヴォリーは辺りを見渡した。日が暮れはじめ、夕日に照らされた川面が本当の宝石を散りばめたようにきらきらと輝いている。星屑の小川と名付けられたこの一帯の由来にも納得出来る、美しい光景だった。

「さて、今日はこの辺でキャンプにすっか。」

　荷物から厚手の布を取り出し、普段から籠手の中に巻き取っている細い鋼線を引き出してそれを近くの木に結び付ける。数カ所に渡されたその鋼線に布をかけていくことで簡単な天幕を作り上げ、今度は川べりから適当な石を見繕って天幕の側へと運び出した。

「ねね、アイ！
　あの石とか良さそうじゃない？」

「メイリー、マダ石コロクラブ続いてたのかよ……。」

　竃を組むための大きな石を運びながら、アイヴォリーがどこかげんなりした口調で答える。竃が出来れば彼女が集めてきた枝に火をつけ、鍋でお湯が沸くだろう。昨日の寒々しい野営とは打って変わって、慎ましく細やかでありながらも、暖かな野営の光景がそこにはあった。