風が吹き渡る。
　川べりというのは基本的に過ごしやすい場所だ。水を求めてやってくる生き物と天候にさえ注意していれば、野営に必要なものをほとんど調達できるからだ。まさしく生命線である水はもちろんのこと、竃を作るために必要になる手ごろな大きさの石、水に引き寄せられてくる生き物や魚といった食料になる生物。水があれば植物も育ちやすいので薪にするための枝も手に入れやすい。そういう意味ではブランチマンから逃げ出したアイヴォリーたちがこの一帯に辿り着いたのは必然かも知れなかった。

「ヤレヤレ、こうやってキャンプすんのも久し振りな気がするねェ。」

　二人だけの簡素な夕食が終わり、日も暮れてアイヴォリーはようやく一息ついた。適当なように見えるアイヴォリーだが、こう見えて非常に忙しい。キャンプの設営や夕食の準備など、その日の滞在に必要な様々な作業をほとんど一人でこなすのだ。もちろんメイリーにも手伝わせるのだが、それはどちらかというと彼女が手持無沙汰にならないための配慮であり、必要とあればこの男は一人でその全てをやってのける。盗賊だけではなく、野伏、レンジャーとしての技術や知識もアイヴォリーは持っている。だがそれは珍しいことではなく、探索者としては良くあることだった。
　基本的には、探索者は誰であってもこの手の知識を多少なりとも持っている。一人旅であれ複数であれ、こういう職業にあれば屋外でその日を過ごさねばならないというのは日常茶飯事だからだ。水の確保の仕方や火の起こし方、天幕の設営の仕方など一通りの知識がなければ生きていけない。だが、それ以上深くとなるとそれは専門家の領域になる。動物の痕跡から辺りの生態系を把握したり、食用に適する植物であるのかを判断したり。土地の様子から周囲の見えない範囲、それが地下であれ森の奥であれ明日の天気であれ、までを予想したり。そういった知識や自然物を使った罠の張り方まで、様々な専門的な技能はひとまとめにしてその持ち主は野伏と呼ばれていた。それを生業として生計を立てる者は狩人と区別されていたが、技能の内容としては非常に近しい。
　誰もがある程度持っている者であるとはいえ、このように専門的になるとそれは他の探索者たちでは手に負えない領分が出てくる。向いているのは注意力、観察力に優れ勘の良い者。そういう訳で、多くの探索者たちのパーティでは、盗賊が野伏を兼任していることが多い。屋内と屋外という違いこそあれ、どちらにも必要となる能力は身の軽さであったり手先の器用さであったりと共通しているのもその理由だった。
　そんな訳で、アイヴォリーも探索者としての盗賊の例に漏れず、野伏の知識を持っていた。もっともこの男の場合は、人が驚くほどの広範な知識と暗殺者として“成りすます”ために必要だった様々な知識がその基礎にあるのだが。

「まァこういうのがダイゴミッてヤツだよな。」

　相変わらず何の実から採ったのか、泥水のような濁った褐色の液体を啜りながらアイヴォリーが言う。彼曰くコーヒーらしいのだが、彼がそういった豆を採っているところを見た者は誰もいないし、そもそもコーヒーというものが何なのか知っている者の方が少数なのだが。

「そうね。以前は良くこうして二人でキャンプしたけれど──」

　微笑みを浮かべて彼の言葉に答えていたメイリーの口をアイヴォリーが唐突に塞いだ。塞いだ、といっても比喩でなく物理的に、しかも革の手甲を着けたままの手でだ。驚いて目を丸くした彼女がアイヴォリーを見ると、彼の視線が鋭く無慈悲な、戦闘中に彼が見せる冷たい目になっているのに気づきその意味を理解する。
　彼らのキャンプの周りには、小さな結界が張り巡らされている。草や木などを巧みに利用し、それらをアイヴォリーが用いる細い鋼線で結びつけたそれはキャンプを囲むように設置されており、周囲の自然の中に隠されている。いくつかに区分けされたそれらの結界は緻密に計算されて調整されており、最終的には三種類の異なる鳴子に行き着く。音の異なるその鳴子は、鋼線の張られた高さや場所、歩き方などから結界を破ったものの大まかな種類が分かるようになっていた。
　その三つの中で今回鳴ったのは、アイヴォリーが一番聞きたくない音、人間型の侵入者だった。無論、このメルンテーゼではエンブリオという特殊な形態を持つ存在がいるため、一概に危険度を測ることは出来ない。だが、同じ探索者の大半が人型である以上、もっとも危険なのは人型、つまりは人狩りで、それ故にアイヴォリーたちがもっとも遭遇したくない相手が含まれる分類なのだ。
　静かに目くばせし、二人でキャンプの真ん中で焚かれる火から遠ざかる。明かりから退き闇の中に身を隠しても、月や星の明かりを反射する水と鉱石たちから完全に逃れられる訳ではないのだが、それでもやらないよりはましというものだ。
　彼らが闇の中から見守る中、幾分小さくなった炎の輪の中に現れたのは、水着を着た男だった。どうやら兵士らしい。なぜこの期に及んで水着なのかは分からないが、アイヴォリーは彼が持っている得物に見覚えがあったのだ。この際水着なのはどうでも良い。無言で手振りを彼女に示し、飛び出すタイミングを見計らう。もう一度相手に目をやって、相手が女でないことをアイヴォリーは少しだけ残念に思ったのだった。