———これは、昔の話だ。

　
　随分と、昔の話だ。
　まだ、フローラが男の服を着ていた頃の。"旦那様"に出会うよりも前の。
　そして彼女に、エメラの妹である彼女に会う前の……。

　何故こんなにも、懐古の念に囚われてしまうのか。

　フローラは気付かないふりをしていたかった。本当は知っていた。自分の心に変化が起きている事を。
　妹様と別れて以来、フローラは初めての孤独を感じている。"旦那様"は今ここにいない。フローラの寂しさを消してくれる人が、この夢の中には誰もいない。だからこれほどまでに苦しいのだ。そしてこの苦しみが、ほんの入り口にすぎない事を悟るが故に、恐怖しているのだった。

　フローラは"旦那様"やエメラとは違う。自らの心を自身の手で救うなどという曲芸をこなすには、まだ追い詰められ方が足りなかった。もちろん、彼らのように奈落の底でのたうち回る思いをせずに済むのは喜ぶべき事だ。ほんの少し手に力を籠めれば、フローラはきっと崖を這い上がる事ができる。わざわざ女装までして、頭の螺子が外れた男に飼われる必要もなくなるだろう。
　ただ、その後が怖いのだ。もしかしたら、完全に立ち上がる事はできないかもしれない。すぐにまた、落ちてしまうのかもしれない。自分から足を滑らせるのか、それとも。

　這い上がった先には、きっと彼女が待っている。

そうして少しばかり表情を緩めた。

おなかパンパンとは。
腹部の前で柏手を打っている光景が浮かんだが違うような気もする。