彼岸の淵を彷徨ってより二日。
我が身体を蝕んだ病煩は、夢想の如く消え失せた。

体躯には力が戻り、全身を覆い尽くした悪寒も今は無く。
身中を駆け巡る脈動の温もりも、今や心地良い。

未だ多少の咳と気だるさが残る他は、我は全き状態へと快復した。



*　*　*



花冠は起き出してより、食料を探しに何処かへと。
大方、川辺で釣り糸を垂らしていることだろう。

我も付いて行こうとしたが、未だ安静にしていろとの言。
もはや動き回るにも障りは無いが、敢えて逆らう気も無し。

此度の異常には、花冠がより知見を有する。
従うよりは、他に無い。



特段為すべきことも在らず。
一先ずは、鈍った筋を解さんと、前へ横へ手足を伸ばし、折り曲げる。


未だ意識は散漫なるままであったか。
広げた足先が荷袋に当たり、その中身が零れ出でた。

この世界に来てより、我が蒐集品は多くを捨て去り、袋は薄く軽かった。
萎れた荷袋から散った物品も、精々が数点のみ。


さしたる面倒も無し、拾い上げんと身を屈める。
そのまま、目前に転がる小さな工芸品へと、手を伸ばす。


———不意に、此れが久方振りの対面であることが、思い出された。


*


花冠から、我に与えられた物品は、今迄にも三つのみ。



一つは、我が人の形に変じてより、最初に与えられた外套。

五十年に渡り纏い続けるも、四散する事無く。
裾が解れ、方々が千切れようと、補い修復し続けて来た。

変わらず、此れからも同様にして在り続けることだろう。
尤も、ヤツもまた、この行為に奇異の目を向け続けるのだろうが。


残る二つは、我が面前に在る。
——棗の櫛と、漆が塗られた桐の髪留め。

あれは確か、共に山里へと下りて幾許か経った頃。
さしたる兆しも無く、如何なる気紛れでも有ったモノか。
良ければ使え、と二つ揃いで手渡された。


棗の櫛は簡素だが、一枚の葉の彫物が施されている。
その表面は丹念に研磨されており、軽やかで良く手に馴染む。

桐の髪留めは、二つに分かれた妙なる形状。
漆の塗られた表層には、紅い花弁と小さな金の枝葉が描かれている。
華美なる意匠とは裏腹に、その姿は掌に収まる程に小さかった。


以来、此の二つの品もまた、我と人の生を共にして来た。



だがそれも、凡そ十余年の時に過ぎず。

櫛の歯は折れて欠け、彫物は磨耗してなだらかに。
髪留めの塗料の輝きは曇り、漆は剥げ落ちて表皮が露わとなる。

出来得る限り丁寧に取り回した積もりであったが、その寿命は短きモノであった。
我は櫛と髪留めを柔らかな布地で包み、荷袋の中へと仕舞い込んだ。


その時より、二つの装具は長き眠りを得ることとなる——


*


数十余年を経て目の当りにする二品であるが、意外にも劣化は少なく。

—否、嘗て己が封じた姿のままに。
同じ衰えを我に示しながら、その場を動かず寝そべっていた。


櫛を手に取る。
その表面は所々が粗く、欠けた歯はささくれ立っている。

だが、髪に櫛を入れれば、不思議と手触りは軽く。
既に己も忘れる程に久しき髪梳きであるが、それは恐ろしく滑らかで。

その一梳き一梳きが、ただただ心地良い。


櫛先を傷付けぬよう、用心しながら懐へ仕舞いこむ。
次いで、傍らの髪留めへと腕を伸ばした。

軽く土埃を叩き落とせば、漆の黒とぼやけた装飾が顔を覗かせる。
幸いにも、その姿形に欠けたる部位は見当たらず。

後ろ髪を軽く結えて上げれば、後の動作は手指が名じるままに。

自らの姿を確認することは適わぬものの、首筋には仄かな風が感じられた。



*　*



遠くより、籠中で魚がぶつかり合う音が近づいて来る。


ヤツはどうせ気にも留めぬだろう。

残りの物品を拾い集め、荷袋の中へ。
乱れた寝所を整頓し、花冠の到着を待つこととする。





そして最後に、髪留めの位置を僅かに整えた。

フィンが自分たちへ投げかけた言葉に、少し身を硬くしつつも。

子供が三人集まったところで、危なっかしいことに変わりは無いらしかった。
声を掛けてくれたのが、自分達の前を行く、二人だった。
アリシアの様子を、シズが気に掛けている、その隣。
二人の後ろに付いて歩きつつ、ルカは目の前の、大人の背を眺めながら、考える。

自分よりずっと背の高い、大人の後ろ。背。
二人と出会ったのは、この世界が初めてで、それ以前に出会ったことは無い筈なのだが。

くるり、共に付いて来た少年少女の方へ振り返り。

『さてね、ペテンすべきことも、狸の様に謀る事もする心算は無いが……。』

男は相も変わらず笑っていた。しかしその表情に変化があった。右腕を突き出すそれに表情を一瞬硬くする。

『ふむ、否定はしないよ。頂点に立ちたいと思うのは生き物の本能だ。かといって、あなたを対象に出来るかと言ったら……中々骨が折れそうだね。』

優男の笑みは良い印象を与えぬだろう。警戒の色を示すフィンヴェナハ。それでも竜の御人から視線はそれでも離さない。

『あなたが私を人間と見えるならそう、人間だろうね。群がる行動もせずあなたに単独で仕掛けているのだし、都会に迷った蟲のようなものだ。
……なればこれ以上逆なでする真似をしても裂かれてしまう。大人しくそうさせて貰おう』

両手を上げて、燕尾服の男は「呼応」と云うように。
無いと二度云い切られた言葉に頷き、愚直に背を向ける。

『悪気があったわけじゃないんだけどね。会える時があるなら穏便な会話をしたいものだよ』

手前で云うた事に果たして反省も顧みることもあるか否か。男はクスリと笑ってから、あなたの元から離れていった。

ぶつぶつと何か呟きつつ、本の背表紙を指でなぞる

遠い日の光景を本で読んだかのように思い起こす。
都合の悪いことがあると火を噴いて誤魔化し、美味い食事を多く食べる為にいちいち竜化したりしていた陽気な老竜を。

ですがそうではないのです、と少女は言う

ものを視るさまが違うのだ、と。
そしてすこし戯けて

自分の言葉に自信がない、という訳ではおそらくない。
ただ摂理として、経験として、そうであることを知っているというだけ。
フィンヴェナハがそれに納得する必要はない。
ただ、今の自分はそう思っていると、そう語るだけの言葉だった。

そもそもそうであったならばこのように旅をすることもなかっただろう。
既に全てを終えて、断ち切れてしまっていたのかもしれないのだ。

そんな、事を考えていると、また別の質問が来た

どんな田舎から来たんだろうか？
ネクターなんて、みんな知ってるものかと思っていた
そもそも、仮に知らない人がいたとしても、それを説明するのってボクの役割じゃない気がするし・・・

それでも説明に入って、気が付いた

その髪は自前なのかと問われて、フローラは忙しない背伸び運動を止めた。

そう言ってあなたの鮮やかな頭髪を指す。
日輪に煌めく赤毛の美しさを、改めて実感しているようだ。
ちなみに衣服については、『貰い物だから何でできてるか知らないの！』と言い放った。