"旦那様"はおかしな人だった。
　面白いという意味ではない。
　正しくは変わっている人と評するべきで、もっと端的に言うなら、頭のおかしい人だった。

　もちろん第一印象の時点で、フローラがそう感じたわけではなかった。彼が周囲とは逸脱した思考回路を持っている事に気が付いたのは、出会ってしばらく経ってからだ。
　その時は、まさか自分が"旦那様"のペットになるとは思ってもみなかったので、彼の内面について深く考えようなどという気は微塵も起こらなかった。
　非常にサディスティックな嗜好の持ち主だとか、女の子の服を着た男の子しか愛せない病気を持っているとか、そういう強烈なキャラクターの過去に何があったのかという核心を、フローラは知ろうとしなかったのだ。事実知らなくとも何の問題もなかった。何故なら当時のフローラには、今の"旦那様"とは別の主人が既にあったからだ。


　その人は少しだけ、ほんの少しだけ"旦那様"に似ているとフローラは思う。
　おそらく、こんな事を考えていると知られたら、元主人と"旦那様"の両方が揃って怒りだすだろう。
　二人はあまり仲が良くなかった。
　フローラからしてみれば、それは同族嫌悪なのでは？とも思うのだが、やはり否定された挙句に怒られるだろうと分かっていたので、一度も口にした事はない。
　だが、感じるのだ。二人の中にある、重く苦しい巌のようなものを。身体の内にこびりついて、剥がす事のできない錆のようなものを。
　そして彼らは、そんな自分自身を自覚していた。よく理解していた。どうすれば己の痛みを和らげる事ができるのか、きっと知っていたのだ。"旦那様"の場合は、その結果が他者への嗜虐だっただけだ。あの人はいつも、自らを救おうとしている。


　元主人は言うだろう。諦めの悪い男、愚かな男だと。
　けれどもフローラは思うのだ。
　彼女もまた、愚かな自分に影を踏まれもがいている。高潔な人だった。そうあれかしと望んでいる人だった。
　理想と現実の狭間に差し込む、得体の知れない光を掴む為に、彼女は踊り続ける事を厭わない。そういう人だったのだ。

　彼女は今どんな気持ちでいるだろうかと、フローラは考える。
　最後の最後まで迷惑をかけてしまった自分に、きっと呆れているに違いない。けれども寛容な彼女の事だ。フローラが戻って頭を下げれば、今でも仕方がないと苦笑して、受け入れてくれるのだろう。
　でも、それだけはできない。
　フローラは許されていない。きっと許される事はない。慈悲深い彼女にではなく、支配者である"旦那様"にでもなく。フローラのかつて大切だった人に。


　彼女のただ一人の、妹に。

腰を曲げ、頭の位置を下げるも、特に目線を合わそうという仕草は無く。
その視線を、フローラの髪と衣服へと向け続けている。

尚もフローラの出で立ちを、念入りに観察していたフィンであったが、
耳のことを問われると、ようやく瞳をフローラへと向けた。

そっと、自らの耳へと手を伸ばし。

己の腰布へと手を伸ばすと、事も無げに裾を持ち上げる。
腰を捻りつつヒラリを布と翻し、尾っぽの不在を指し示そうとした。