"旦那様"にとっての「悪夢」がどういうものなのか、その時のフローラにはおおよそ想像もつかなかった。
　何故なら、何度か夜明けを共にしても、彼の人がうなされている場面などには一度も遭遇した事がない。
　というよりも、日常的に悪夢を漂っているような寝顔をしている"旦那様"だったので、彼にとっての夢とは全て悪夢なのではないかと、心のどこかで思っていたのだ。

　フローラはふと夜中に目を覚まし、傍らで上体を起こしている"旦那様"に気が付いた。
　真っ暗な部屋の中、水差しから温い水をコップに注ぐ音が響く。
　唇を湿らせて息をついたところで、"旦那様"はいきなりフローラの方へぐるりと向き直った。

　突然投げかけられた言葉に、フローラは心底驚いた。気付かれていたとは思ってもみなかったので、目を白黒とさせていると、表情はそのままに"旦那様"が顔を覗き込んでくる。

　ただし口調は詰問に変わっていた。瞳の色は動かぬまま静かに問いかけられ、フローラの背中に若干の汗が浮いた。"旦那様"はいつもこうだ。涼しい顔をしてはいるが、何を考えているのかは全く分からない。次の瞬間には絞め殺されているのではという予感も、笑いごとではなかった。

　フローラの呟きに"旦那様"は何も返さなかった。
　その代わりというように寝台から降り、寝着を脱ぎだす。困惑するフローラにも着替えを促して、未だ薄暗い夜の闇へと連れ出した。


◆


　馬の鞍に乗って、頬を"旦那様"の背中へ押し付ける。
　風は冷たい。暗闇から吹き付ける夜気には、目には見えないものの悲鳴が混ざっているような気がした。その悲痛な音の中に、知っている誰かの泣き声が聞こえそうだ。
　"旦那様"が何をしようとしているのか見当もつかないので、フローラはただ黙っていた。"旦那様"の操る手綱で何処へ連れていかれても、異論はないように信じ込まされている。
　フローラにはもう、この人しかいないのだ。全てを失った自分を拾って食べさせてくれる人は、彼以外には。

　風が止んだ。
　"旦那様"がフローラを馬から降ろす。
　そこは墓地だった。月光に照らされた墓石達が、その地に眠る死者を押さえつけている。
　フローラが"旦那様"の意図をつかめずに棒立ちになっていると、"旦那様"は一番近くの墓石に寄り、突然その銘の部分を蹴り飛ばした。魔術で補助でもしていたのか、脆い焼き菓子のように石が倒れる。

　"旦那様"はそのままフローラの首根っこを掴み上げて、石に隠されていた土の上まで引き摺った。湿った泥の感触。短い草の根元にいた虫達が逃げ出す。急に手を離されて軸を失ったフローラは、当然の摂理で地面に倒れ込んだ。

　もちろん、聞き逃したために言葉に詰まったのではない。

　一瞬、フローラの意識は暗やみへ飛んだ。"旦那様"が何をさせたいのかが分からなかった。罪人でもない亡骸に火をかけるのは、死者に対する冒涜だ。それに、フローラはこの土の下に眠るのが誰かは知らない。それをわざわざ、棺桶の蓋を開いて確認しろという。何のために？誰のために？少なくともフローラのためではない。それに"旦那様"のためでもなかった。何故分かるのかと聞かれれば、フローラは答えられた。
　いつも人を虐める時はにやにやと笑う人が、今は完全な無表情をしている。

　怖くなった。自分の知らない相手がそこにいると感じた。フローラが蹲ったまま情けなくもしゃくりあげると、応えてくれるのは微かな葉擦れの音だけで、"旦那様"は沈黙したままだった。
　しくしくと泣き続けるフローラの身体に、しばらくして影がかかる。
　"旦那様"の爪先が、俯いた視界の端に見えた。

　涙目で慈悲を乞うフローラを一瞥し、"旦那様"は崩した墓石に腰を下ろした。

◆


　炎が揺らめいている。
　明々と闇を照らす不穏な煌めきが、眼前で歪み融ける。
　涙でいっぱいになったフローラの瞳に、火の中の輪郭はあまりよく見えなかった。
　"旦那様"に背後から抱えられ、慰めるように頭を撫でられている。その優しい手の動きは、もう普段の"旦那様"と全く変わりなかった。
　フローラの髪を愛撫しながら、"旦那様"が尋ねてくる。

　フローラが答えられずにいると、"旦那様"は軽く髪を引っ張って遊んだ。無邪気な子供のように相手の苦痛を楽しんでいる。相変わらず、何がしたいのかは理解できなかったが、単純に反応が伺えるだけでも、フローラにとっては救いだった。
　炎がより一層強くなる。中身が焦げる嫌な臭いにももう慣れた。
　この人といると、何もかも麻痺していく。それでも離れる事ができない。間違いなく依存していた。本当は彼でなくても良かったはずなのに。


　"旦那様"がフローラを強く抱きしめながら、囁く。

　彼が夢の中で誰を焼いたのか。フローラは、今でも知らない。

子どもじゃない、と言うフローラに、重ねて否定することはしなかった。
幾らか考え込む様子を見せてから、そうだな、と。