背に踊る蛇の墨彫りが、少しずつ装束の下へと隠されていく。
　ぼんやりとそれを眺めていたカサネは、緩慢な動作で起き上がった。
　そのまま膝でにじり寄って、広い背にぽすりと額を預ける。


「どうした？」

「……うん」


　笑みを含んだ問いかけに、明確には答えず目を閉じた。
　目の奥がじんわりと熱を持っている。

　今までの人生でこれ以上ないくらいに泣いて、言葉や気持ちを吐き出して、飢えを満たすかのように求めて、固い指先に涙を拭われ、望む言葉と熱をたくさん貰って、甘やかすように与えられた。
　たまらなく幸せで、同時にきっとこれからしばらく付き合うことになるだろう疼痛が心臓の奥に居座っている。

　息を吐く。
　散々言ったはずの言葉が、まだ性懲りもなくこみ上げてくる。
　苦く飲み下したのを誤魔化すように、預けた額をぐりぐりと擦りつけた。


「上にも何か着ておけ。また風邪を引くぞ」

「……うん」


　触れているから声とともに伝わる振動。
　装束と、その下に着込んだ鎖帷子の感触。
　直接触れ合う温度は勿論、これらも忘れたくはなくて、覚えていたくて、噛み締めるように大事に記憶の中へと仕舞いこむ。

　不意に、額を預ける背中が身じろいだ。
　座ったまま振り向いて、伸ばされた腕に抱き寄せられる。
　何も着ていない上半身に触れる掌の温度に、昨夜の熱を呼び覚まされそうだ——…
　そんな風に思っていたのも束の間、少し冷たい布地が肌を包んで目を開ける。
　肩に掛けられていたのは、自分のミリタリーコートだった。

　目を瞬かせれば、見下ろす忍が困ったように笑う。
　指の背で頬に触れ、顔に掛かる髪を耳の後ろへと流しながら、柔らかい声が降ってくる。


「そんな顔をしてくれるな…手放し難くなる」


　一体どんな顔をしているのか気にならないといえば嘘になるが、尋ねればこの人は正直に教えてくれるだろう…それは、羞恥心で自分を殺すに等しい気がする。多分。きっと。
　なので、その視線から逃れるように顔を伏せ、今度はその胸に額を預ける。
　ならば離してくれるなと乞うのは互いに辛くなるだけだと分かっているから、代わりの言葉を搾り出す。


「……ちゃんと、覚えていようと思って…」


　離れたくない。
　どうして一緒じゃいられないのか。
　何故同じ世界に生まれなかったのか——…

　昨夜自分が口にした、どうにもならない言葉の数々。
　困らせるから言いたくなかったその全てを、この人は自分から引き摺り出した。
　その上で幾度も、幾つも、“先”に繋がる言葉を、約束をくれた。

　なによりも…

　自分の心臓の位置に触れる。　
　昨日までは何もなかったその場所には、今では蝶の墨彫りが刻まれていた。
　伏火がくれた約束の具現であり、自分の心臓——心は、伏火のものだという証。

　自分もまた、伏火の肌へと印を刻んだ。
　慣れない術式には苦労したが、図らずも対のようになったそれに満足感を得たのも確かで。


「あんたが俺にくれた全部、忘れたりはしないけど…もっとちゃんと、覚えていたいから…」　

「…そうか」


　ほんの一瞬…その隻眼の奥に滲んだ感情には気付かない振りをする。
　カサネを受け入れてくれるまでに、伏火は色んなことを曲げて、折れてくれたのだ。
　滲んだ感情の正体が例え幾許かの罪悪感や後悔であるのだとしても、それでもカサネの手を取ってくれたから…それでいい。

　髪に触れている手を引いて、その掌に頬を摺り寄せる。
　まだ手甲をしていない、自分より大きくて硬い手の感触を、温度を忘れないように。
　そして願わくば、この手が自分を忘れないでいてくれるようにと願い、口付けた。

　泣き顔は散々見せてしまったし、我侭ももうたくさん口にした。
　だからここから先は、そういう情けない自分を見せたくはない。
　というか、自分を思い出してくれる時に浮かぶ顔が泣き顔ばかりではあんまりだ。
　だから…


「忘れない」

「ああ」

「あんたも、覚えてて…」


　無論、とでも返そうとしたのだろう唇に人差し指を当てて言葉を封じ、笑う。
　上手くいってるかはちょっと自信がなかったが、それでも。
　きっとこの人は、分かってくれるだろう。

　膝立ちになり、同じ高さで視線を合わせる。
　忘れないで。
　今一度小さく囁いて、そして。







「“次”は、俺の全部…あんたに受け取ってもらうから、そのつもりでいて」







　自分からも“先”に続く約束と同時、誓うように交わした口付けを合図に、別れの日が始まった。

　

（前を行く人の言葉に顔を上げ、近付く気配に身構える。
けれど、そこに必要以上の気負いはなく）