深夜、皆の寝静まった屋敷の中、音を立てないように気をつけながら足早にトイレへと向かう。胃から口へと、気持ちの悪い酸が押し上げて来ていた。夢を見て、目覚めては吐く。まるでそれが義務になっているかのように、欠かす事なく。毎晩、毎晩。

手押しのポンプに、倒れこむように体重をかける。身体を支える銅の筒がゴポっと水を押し上げる音を響かせた。バシャバシャと冷たく跳ね返る水が顔に当たる。
ゆすいで濡れた口を手で拭っていると、水溜りに反射する自分の姿が見えた。青褪めた表情は、驚く程に生気が感じらず、まるで死体のようだ。
先程まで見ていた夢を思い出す。また吐き気を感じて、慌てて頭から水を被る。見つめ返してくる青白い顔が、バシャバシャと水を打たれて掻き揺れた。こんな思いが、あとどれくらい続くのか。
水が止まり、静まり返った廊下を振り返る。先の見えない暗闇に、心が押しつぶされそうになった。

「なんだか……つかれたなぁ…」
縁側にぺたりと座り、そのままごろりと倒れた。月明かりに照らされた自分の身体の白さに、嫌悪感を抱く。眠れば血色は戻るだろうか？眠って身体を休ませなければ、次の日は万全に動けない。それに、顔色が悪ければ皆に心配させてしまう。
そんな事は分かっているのに、眠る度に同じ夢を見るものだから、最近は眠る事が恐ろしくなっていた。

「心が煩わしいか？」
突然、リーリーリーリーと虫の鳴く音に混じって、低い音が響く。
顔をあげると、暗闇に光る二つの目があった。白の虎。ベルカだ。

「嫌なもんだろう。お前の中にある小さな感情の受け皿の殆どが、憂いと憤怒で埋まってるんだ。疲れるだろうな」
2mを悠に超える大きな身体を横たわらせて、ベルカは言う。
その嫌なモノを持ってきたのは、他の誰でもないお前じゃないか。
そう言い返そうと思うのに、口を開こうとすると目の奥が熱くなった。喉が震えて言葉が上手く出ない。
本来は自分が持っていた感情なのだから、ベルカに対するこの怒りは八つ当たりでしかない。この虎はわたしの感情を返したに過ぎないのだから。あぁ、分かってる。分かっているんだそんな事は。
それでも、身体の内側からは真っ黒なドロドロとした感情ばかりが湧き上がってくる。

何でわたしが、こんな目に。
わたしだってちゃんと力が欲しいのに。この小さな身体が煩わしい。もう嫌だ。こっちを向いて。置いて行かないで。わたしを必要として。わたしを要らない人なんて、要らない。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。一人にしないで。

膨らみに膨らんだ感情が弾ける。押さえ込んでいた涙が溢れ出た。ボロボロボロと、大きな雫が床を濡らす。
泣いたって仕方がないのだから。そう思うのに、困った事にわたしはこの止め方を知らない。

もう、駄目だ。駄目なんだ。
周りの目が怖くて怖くて、仕方がなくて。自分は本当は嫌われているんじゃないかと、そう思えてしまって。
何時の間にか、人の顔を伺うように過ごしていた。足を引っ張ってしまわないように。機嫌を損ねてしまわないように。
けれど、そう過ごして行くうちに、どんどん苦しくなっていく。
小人の老人が言う、必ず心が晴れる日が来るというその日は本当に来るのだろうか？その前に胸が潰れてしまうんじゃないか。夢の中で助けてと叫ぶ少女に、助けて欲しいのはわたしの方だと悲鳴をあげてしまいそうだった。

「やれやれ……そんなでは、部屋が洪水になるぞ」

耳元で低い声が響いたと思うと、目の前が突然何かで覆われる。
音も立てずに近づいたその山のような影の正体が、ベルカだと認識する間もなく、突然ザラザラとした何かが顔を撫ぜた。
何が起こったのか分からずに、瞬きを繰り返していると、またベロリと何かが顔を這う。今度は何度も何度も。
それかベルカの舌だと分かる頃には、顔がチリチリと痛みを帯び始めていた。やめてと言おうにも、口を開く隙もない。ザラザラザラザラ、ザラザラザラザラ。
あぁもう！知らないのか、虎の舌は痛いんだ。抗議のために髭を引っ張ってやろうと思った所で、楽しそうにフンと鼻を鳴らして舌の攻撃が止む。

「な、なに！」
「おいで。少し散歩をしようじゃないか」
返事をする間も無く大きな頭で背中を押されて、勢いよく庭へと転がり落ちる。
コロコロと変わり襲う痛みと景色に、もう何がなんだか、訳が分からなくなっていた。顔は痛いし、落ちた時に打った膝も手も痛い。手のひらには小さく尖った砂が纏わり付いている。
それなのに先に歩き出したベルカが「先へ行くぞ」と急かすものだから、抗議も出来ずに慌てて突っかけを履いて追いかけた。
何なんだ、この虎は。出会って直ぐに襲いかかってきて、無理やり記憶を戻されて。全てが一方的で腹が立つ。あぁもう本当に腹が立つ。
なんなの、どこへいくの。
そう聞いた所で返事は「いいからおいで」の一点張りだ。
もう知らないと突き放して帰ってやろうかと思っても、きっとこの虎はわたしを咥えてでも連れていくのだろう。契約してから数日。まともに喋ったのは今日が初めてだが、さっきのやり取りでベルカの横暴さは身を以て思い知らされた。

抗議を諦めて竹の林を抜けて歩く事数分、ようやく歩みを緩めたベルカが口を開いた。

「俺はな、嬢ちゃん。昔小さな家族に仕えるエンブリオだったんだ」
「……えっ？」

いきなり何だと問えば、ただの昔話だから付き合えと笑い、ベルカは言葉を繋げる。

「夫婦の家だ。子どもは居なかったんだがな、代わりに生意気盛りの女の子のエンブリオが居たんだ。信じられんだろうが、契約してないエンブリオだ。それでも、二人はその子を我が子のように可愛がってなぁ……。
その子供も二人の事を両親の様に思ってたんだ。喧嘩したり、ふざけ合ったり。不思議な話だろ？」

契約しなくとも、共に。そこにどれ程の信頼関係があったのだろう。
その感情はまだ、今のわたしには手が届かない気がして、少しもどかしいような気持ちになる。

「……そのコはケイヤクしなかったのに、ベルカはどうしてケイヤクしたんだ？」
「契約すれば、主となる相手に力を貸せるだろうが。俺は主を気に入ってたんだ」

思い出すのも嬉しいのか、ベルカの表情が柔らかくなる。

「俺が契約していたのは男の方でな。男は事故で両足が動かせなくなっていたんだよ。だから、俺が男の足になっていたんだ。戦う時、お前の鳥はお前の刀になるだろう？それと同じ様に、俺も男の足になったんだ」

他のエンブリオ達と口喧嘩をしながらも、楽しい日々を過ごしていたのだと、隣で笑う表情は眩しく見えた。
そうか。それはいいな。この乱暴な虎をこんなにも柔らかな表情にさせる人達が居たのだ。その家族を想像するだけで、こんなにも暖かな気持ちになる。あぁ、いいな。

「さぁ、着いたぞ」

声に視線を促され顔を上げ、息を飲む。なんと眩しいのか、そこには一面の白が広がっていた。
月の光を受け柔らかく光る、白の花。
隣で「ナルシスだ」とベルカが笑う。

「綺麗なもんだろう。さっき話した生意気な嬢ちゃんが育てていたのを、俺が継いだんだ。お前に見せたかった」
「イオに？」
「あぁ…お前に。無事に咲かせられて良かった」

眩い花に手を伸ばす。不思議と柔らかい冷たさを持った花弁に触れると、ふわりと香りが広がった。

「これぜんぶ、ベルカがそだてたのか？」
「土を作り種を蒔いたのは、さっき話した嬢ちゃんだがな」

フワフワと揺れる花びらはまるでベルカの柔らかな身体の様で、花とベルカを見比べる。さっきまであんなにも乱暴だった虎が、花を見つめているその姿が、少し可笑しかった。

「…花というのはな、難しいんだ。寒い冬を越す力強さを持っているくせに、時々外は怖いと春になっても芽を出さないやつもいる。環境の変化にも弱いしな。 ちょっと頑張って咲かせてみれば、人も虫も獣も魅力出来るというのに……」

花を見て、眩しそうに目を細めながらベルカは問う。

「なぁ、嬢ちゃん。お前さんの小さな心の中で、せっかく育とうとしている種が腐ってしまうのは、もったいないとは思わないか？」

手元の花が大きく揺れる。

「土の中は暗いだろう。先は見えん上にジメジメと冷たいしなぁ。早く外においでと呼ぶ雨すら、自分を攻撃するものだと怖がって、外を見ようともしない。花が咲くのを待っている人が、どれ程いるのか知ろうともしないで」

立てた膝をゆるゆると抱いて、額を乗せる。あぁ、そうなのか。わたしは怖がっていただけなのか。だって、知らなかったんだ。どうやって言葉を受け取ればいいのか。どうやって返せば良いのか。疑う方法ばかりを知って、信じる方法を知らなかった。
夢の中で少女が助けて、助けてと泣くものだから。世界は怖いものなのだと、思い始めていた。

「ユメのなかで、イオにたすけてって、なくコがいるんだ。」

一目見るだけで、もう助からないと分かる程の傷を負い泣く少女。
助けて助けてと言うのに、わたしにはどうすれば良いのかが分からない。

それでも話を聞いたベルカは、なんだ、そんな事かと言って簡単に答えを出した。「もう気にせず眠ればいい。」
もう、夢は見ない。大丈夫だと。

「……どうして？」
「お前はもう、夢の嬢ちゃんを助けたよ。随分と前にな。お前が見ている夢は、昔のお前の記憶に過ぎないんだから」

どうしてベルカが夢の事を知っているのか。不思議に思ったが、そうか、と答えを思いつく。わたしの記憶を返したのがこのベルカなのだから、見えたのだろう。
けれど、その何故わたしがその少女を救った事になるのか。その答えが、見つからない。

「嬢ちゃんはな、『わたしを助けて』と言ったんじゃない。『ベルカを助けて』そう言ったんだ。俺はもうお前に十分に助けられたんでな。だから大丈夫だ」
もういいな、帰るぞ、と再びゆっくりと歩き出したベルカの言葉がさっぱりと分からなくて、何度も何度も聞き直す。わたしがこの虎にした事と言えば、暴言を吐いて髭を引っ張ろうとした、それだけだ。なのに、それを助けられたと言う。わたしにはまだ分からないだけで、誰かを助けるというのは色々な方法があるものなのだろうか。
けれど、わたしが悩んでいるうちに、どんどんベルカは先を歩いて、置いていくぞと意地悪を言う。どういう意味なのかと問うても、またそのうち分かるさと、同じ言葉しか返ってこない。
少女が誰なのかも、少女とベルカの関係も、わたしが何をしたのかも。
謎が増えるばかりなのに、もう大丈夫だなと笑う姿は、あぁどうしてか安心してしまう。大丈夫なんだと思ってしまう。

それでもやっぱり、振り回されてばかりでたまるかと思って、屋敷を思い浮かべた。急に目の前に広がる竹林に、虎が驚きの声を上げる。
してやったり、そう思って、ベランダへと駆けた。
背後からベルカが「おやすみ」と笑う。
もう泣くなよ、泣き虫。そう言われて、初めてずっと前に涙が止まっていた事に気付いた。最初から最後まで、してやられたのは、わたしの方なのか。

ベルカの話は何も分からなかったが、そのうち分かるさ、と言うのだから今はそれだけで良いか、と思った。涙の止め方は知らないが、涙を止めてくれるひとがいる。それだけで十分だと、そう思えた。

部屋の布団に入って目を瞑る。
とろとろと、暖かな眠気が身体を覆った。


花を愛する虎の話

腰を屈め、目線を合わせてから話すのがいつもの癖だが、
単に姿勢を変えるためとはいえ、勢いよく抱き着いてきたその小さな腕をすぐさま剥がさせるのも忍びない。
抱き返す代わりにそっと尾を沿わせ、黒髪を撫で続けた。

右に、左に、槍を旋回させ正面でぴたりと構え……ようとして。

……勢い余って、槍の平たい面を自分の顔面にぶつけた。