「うーん、やっぱり風が通る場所はいいわ」

　言って小さく伸びをする女性に、まるで同意を示すようなタイミングでそよ風が吹いた。
　ケツァルコアトルの仕業だろうか、と思う。今日は姿を顕していないので、偶然の可能性が高いが。

「人には風と光が必要じゃからのう。少々、気をつけねばならぬ風でもあるが」
「それは何となくわかるわ。森の匂いに混じって……まだちょっとよくわからないけど」
「そろそろテリトリーに入るところでしょうか」

　妖精の森、と称されたそこには、排他的な妖精のエンブリオが住まうという。
　それらとの契約の為、幾度かの道の交換を経て深部へと進みつつある。件の妖精の領域に、さしかかったところだ。
　この様子なら、恐らく程なくして妖精と遭遇するだろう。予定通りではあるの、だが。

「…………」

　先ほどから、普段以上にことばを発することなく、女性のすぐそばに控える精霊のこどもに目をやる。
　戦闘になる覚悟をしつつも、緊張している——というのが普段の見解だが、今回に限ってはそれだけではない。

「ラズ坊や。白虎の坊主が遅れておるが」
「……抱えたほうがいいですね」

　いつもなら無駄に余った元気で足元を走る白虎の歩みも、とても遅い。
　来い、と意志を伝えた瞬間、弾かれたように頭を上げ、全力で走ってくる。空いた片手に抱き上げると、しきりと訴えるように目の青を濃くした。

「ム、いかがなされた？」
「いえ……そろそろ現れる頃ですから、呼び戻しておこうかと」
「そろそろか！？　近くに居ると！！！？」
「わかりませんが、居るかもしれませんから」

　この、ゴンザブロウと名乗る人物であった。
　目的あって、妖精の森を探索しているらしい。東方のものと思しき装束の、とても、思い込みと声量の激しい男性だ。
　盲目であるのか、その目をかたく閉じているのだが、その所為で余計に迫力めいたものがある。
　敵対者ではないし、本気を出した調査隊メンバーをそれぞれ考えれば、むやみに恐れることはないと思う、のだが。

「………………」

　人見知りするところがある精霊のこどもに、これを我慢させるのは酷だと思った。
　自分だけでなく、全員、そう思っているだろう。だが、この妖精の森を探索する上で、ゴンザブロウというこの人物の同行は、避けられぬものらしい。敵対者でなく、むしろ味方であり、決して今の自分達にとって悪い人間ではないのだが。

「リーテ、あんたもちょっと来なさい」

　手前に居た女性が子狼を手招き、同じくひょいと抱えて、精霊のこどもに預ける。

「マグ。悪いけど、ちょっとリーテを抱っこしててくれる？」
「…………う、ん」
「ありがとね。さっき茂み通ったとき、どうも葉っぱ引っ掛けたみたいで」

　きゅう、と抱きしめられた子狼は、あるじの意向を理解しているようで、大人しくはたはたと尻尾を揺らし、絡みついた葉をひとつずつ取り除いて貰っている。甘えるようにこどもに鼻をこすりつけると、少しだけこどもの雰囲気が和んだ。
　しかし、普段なら子狼と一緒に転げ回ったり競争しはじめる白虎までもが、ゴンザブロウと名乗った男の一挙一動に目を白黒させているのだから、これは相当だ。
　繰り返すが、決して不愉快なそれではない。普段は、返答もごく穏やかだ。普段は。
　ただし、いつ、何の弾みで大声を出すか掴みかねる。悪意の不在は深刻だった。

　男が前方に注意を戻したのを確認した後、ひっそりと魔女が囁いた。

「もし再度訪れることがあるなら、あらかじめ大声に対する細工をすべきじゃの」
「是非お願いします」
「イルは割と平気そうだけど？」
「実は既にいんちきをしておる」

　さらりと言い放った後、こちらの反応を確かめた魔女は、目を細めて笑った。
　その笑みは、若干苦いものであったが、確かに笑みではあった。

「などと言うと思うたか？　単なる年の功じゃ」
「御見それしました」
「ラズもあんまり堪えてないように見えるけど。見えるだけよね」
「心臓が止まる事だけはありませんが」

　常人より緩やかに過ぎるというだけで、決して何も感じないわけではない。
　むしろ、五感の鋭さが裏目に出て、先ほどから何度か頭痛を起こしそうになった。ユニコーンの介在がなければ、うずくまって動けなくなってしまったかもしれない。

「……もしかして妖精をおびき出すのに必要なのって」

　珍しく言葉を切った女性の、その言わんとすることは、充分その場に伝わっていたようだった。