「研究棟、なんだけど」

毎日恒例となった翌日の行き先の相談の後。メモを囲んだ円が徐々に崩れて何の形も成さなくなった頃、円の名残に留まる魔女に声をかける。

「何か気になる事でもあるのかえ」
「気になる、っていうよりはもっと、…嫌な感じね」
「ふむ」

魔女は先がわからないような振りをした、全てを察した眼差しをこちらに向ける。
察した先を口にしないのも、その口元が歪まないのも、眼差しが透き通っているのも。本当に、彼女らしい。そして、有難い、と思う。
魔女は待っているのだ。自分自身が言葉を紡ぐことを。

「…あたし、あそこにはできればあまり行きたくないわ。他のとこならどこでも行くけど、——あそこは、いや」
「…ふむ」
「……研究棟の奥の方にいる、クソ研究者って噂のヤツは気になるけど。それ以上に、あそこは」





——あそこは。

指先がかすかに震える。ぐっと拳を握り込んで押さえこもうとしたら、指先の震えは掌の中で反響して拳ごと震える。
目の奥が、熱い。


「もう良い」


ひやりとした空気と共に静かな声がして、それで目の奥の熱は一気に引いた。
はっと顔を上げると、魔女の眼差しは幾らか鋭さを帯びている。
けれどそれも、視線がかち合うなり普段の色に戻る。柔らかいのか鋭いのか、滑らかなのかざらついているのかわからない、揺蕩う水面と氷を合わせたような眼差しだ。

「ふむ。大丈夫そうじゃの」
「え…」
「目が夕陽のようじゃったぞ。今は元の金じゃがのう」
「そう…なの、」
「うむ。嬢やがあそこを不得手としておることは承知した。行き先を分ける時に少しばかり気をつければ良かろう」
「…いいの？」
「それは他の皆にも相談してみぬとのう。じゃが否と言う者が居るとは思わぬ」

魔女の声は普段と何一つ変わらなくて、それに面食らう反面安心した。
特定の場所を避けたい、なんて酷い我儘のような気もしたけれど、終ぞ魔女はそれを責めることをしなかった。

　　−−−−−−−−−−

明日の支度をしようかの、と魔女がその場を離れていって、一人になる。ひとつ伸びをして自分も支度をしようかとしたところ、月長石が瞬いて、二匹の狼が飛び出す。

「レイ！れーいー！」
「おはなしおわった？おわった？」
「んう。ノクトはあっち！レジにいと遊びなよう」
「やだ！レイー！あそぼうー！」

酷く懐っこい甘えん坊達は、どうやらじっとレイの手が空くのを待っていたらしい。
ぐるぐると足元を跳ね構えと要求する姿に、一気に脱力する。

「ちょ、ちょっと、あんたたち」
「ううー！リーテばっかり！！ぼくもレイとあそぶもん！」
「だーめ！ぼくとなの！」
「待ちなさいリーテ、ノクトも…ああもう、」
「なんだよう！ひとりじめってだめなんだぞ！」
「ちがうもん！じゅんばんだもん！」
「ちょっと、聞いてるの！？」
「じゃあぼくが先だもん！」
「だめ！ぼくだよ！」
「…、……あんたたち、」
「う？」
「ふえ？」
きゃんきゃんと賑やかに——別の表現をするなら、喧しく——言い合っていた仔狼は揃って顔を上げ、……そして、咄嗟に一歩飛び退く。
だが、もう遅い。ぴり、と空気が震えて、そして、


「——おすわり！！」





「…いつものレイさんですね」
「うむ。狼達様様じゃのう」
「困っていたように見えましたが」
「他には？」
「……楽しそうです」
「うむ」

茶の入ったグラスを揺らしながら、魔女が笑う。調理を担当する青年は、僅かに眉を下げながら狼たちを見つめ、やがて翌日の朝食になるだろう食材に向き直る。

「坊やは明日の仕込みかえ」
「ええ。明日は、鶏肉と野菜でサンドイッチにしようかと。野菜にも火を入れて傷みにくくして、お弁当にもなるように」
「嬢やの好物じゃな」
「…はい」
「…ふ。嬢やが妙な顔をしそうじゃのう」
「やめた方が良いでしょうか」
「いや。きっと喜ぶじゃろう」
「そうだといいんですが」

心許なさげな様子に魔女がまた笑う。
少しばかり離れた場所では「おすわり」を解くことを漸く許された狼たちがまた勢いよく跳ね回っている。

「気負いすぎては潰れてしまう。あれくらいで丁度良い」
「そうかも、しれませんね」
「……しかし」
「どうしました」


「……！？い、今のなに…！？」
「ごめんねマグ、大丈夫！？……こらあ！マグに謝んなさい！」
「くぅん…ご、ごめんなさあい…」
「ごめんなさいー…ノクトがそっちに跳んだんだよう」
「ぼくのせいなの！？」
「だってそうじゃん！あっちの方が広いのに！」
「なんだよう！リーテだって…」
「ええい喧嘩しない！おすわり！！」
「ふえっ」
「ううー…」


賑やかな声が響く。響く。
じゃれ合ううちに精霊の子どもに見事に激突した狼は、二匹揃ってしゅんと小さくなっている。
しかし静かになるのもきっと束の間にすぎないのだろう。

「…ふ、明日の支度が終わるのと狼達が疲れて寝るのは一体どちらが早いかの」

何処か楽しげに魔女が呟く。
空には見事な月ひとつ。夜はゆっくり更けてゆく。