わたしにもう翼は無い。だから、飛べない。


血で固まった髪を爪先で解く。仄かな罅の入る感覚と、やがて零れ落ちた暗赤の結晶。その落ちてゆく様を彼女は見ていた。ずっと、やがては砕けた硝子、あるいは水晶に紛れて見えなくなったとしても。
光は細かった。割れたステンドグラス、銃痕の残る祈りのための彫像、斧が床を抉った亀裂、紅の羽毛——
ディオール。彼女の唇に、彼女の神の名が乗る。彼女の美を支える金色の神。今、彼女を生かすものの名を彼女は知らない。いつの間にか根付いた色は、随分と色濃く、彼女を夕闇の中に引きこもうとする。朝の娘。その響きの軽やかさ、愛しさに引き換えその影は随分と重く、また混沌としている。はじまりの女。女であることを知り、受け入れ、そうして、女が女として生きる魂の翼、それは今彼女の肩甲骨に宿る。
肋骨では、今日も美しい金の光が彼女と共にある。そこから彼女は生まれた。この世界で。その様の顕す通り、一人の女として。ただ、いちどきりのフィガロとして。

後にも先にも、これほどの美を騙るものはない、その渇望の象り figureとして。
渇望を夢見て翼aileを失い、また渇望の果てに女elleの本質を差し出して、今なお。