「——さあ行こう、フィガロ」

　言って、彼は彼女の手を取った。
　骨張った造りをした彼の手に、フィガロのそれはやけに柔らかな、陽を浴びた花のように触れる。それは彼らの庭に咲くそれではなく、もっと別の、遠くに正しいあり様を守る草花の——。
　その指の、手の先に続く呼吸の音を、彼は感じる。彼女というものの織りなす気配、すらりと立つ姿の質量、彼女がそこにいるのだというあえかな確信を。　オルガの呼吸は、いまや彼らの傍にはない。
　もうひとりの、夜を思わせる娘の足取りは。
　それは、そうした一日のなかにある時間だった、この日ばかりはひとりとひとつ。釣り合いを保つには、豊かに緊密な関係性を横たわらせて。

　彼にも少なからず覚えていることはある。

　かつてオルガが庭へやってくるまで、彼らは長らく二人だった。
　彼はくらやみの眼を細める——長らく？　そう長い時間があったわけではないかも知れない。恐らくはそうだろう。
　そのころの彼はまだ、黒い花の咲く場所からそう遠くへは行けなかった。娘たちと言う窓を、手に入れてはいなかったから。
　黒い花らの茎の倒れてゆく気配、その感触、何かを支えようとして耐え切れず折れていくことの。
　そうして、そのなかに倒れていたフィガロ。
　もはや立ち上がる力さえ持たず、よろめき、傷つき、その傷に汚れ、……。

　いつも出喰わした誰かへそうするように、彼はフィガロに尋ねた。
　眼をくれるかと。
　その目玉を。
　眼球を。
　彼女の返事はすげないものだった。
　弱々しい微笑みを吐息に添えて、それはできない、と。
　彼はそうか、と頷いて、そうして彼女に手を貸した。
　いまはまだ、差し出される手を欲しがっているだろうと思えたので。

　彼女の身体を掬い上げ、抱き留め、いまや彼のものとしてそこにあった家のなかへ寝かせた。
　そこに彼女を取っておくつもりで。
　彼女がいつ心変わりをして、その眼をくれても良いように。待つことは嫌いではない——ひとつも苦にはならない。そうするための時間は、彼にはいくらもあるのだから。
　それからはしばらく、彼女の求めるもの、必要とするものを、言われるままに探し、集め、持ち寄った。
　水、食べもの、衣服にそれ以外の布……一番はじめにしたことは、彼女を正しく寝台へまで運んでゆくことだった。
　絨毯敷きの床の上から。

　彼は小さく笑った、思えばあれからずいぶんと人間らしいことをするようになったものだ、そのようなことを扱えるように。

　懐かしい話……それはいまやひどく懐かしい話だった。

v

人気の少ない場所
たまたま見かけたとある人に声をかけた。

少し離れた場所に浮いている。

低くこもるような笑声に、不思議そうに瞬いて。
彼を見上げたまま小首を傾げる。
その顔のまま、彼の言葉を咀嚼するよう、じっと顔を見つめている。

足元に皿を置き、一歩を詰める。
まるで幼子が抱き上げてくれとせがむよう、彼の服を引き両手を彼の顔へと掲げ。
彼がその動きに気づいて応えてくれるなら、その頬を両手で挟んで顔を近づけ。
そうでないなら翼でバランス取りながら、短い足で背伸びして。
顔を近づけまじまじと。

木陰に座ったレイスは水筒から水を出すのを止めると、
長身の男とその影を見て（やってしまった）といった表情でしばらく返事に困っている。

手を軽く取り、顔を覗き込む。