事の発端は、王城前でのラルフとの手合せの後のこと。
　森の外で力を使ったウルヘアは、消耗の度合いが大きかった。
　だから——お腹が、空いていたわけで。

「っ、もう！」
　捕食動物と認識した子狐に向かって飛ぶウルヘアは、呼んでも止まらなかった。
　高らかに鳴きながら彼を追うその眼は、明らかに捕食者のものだ。
　ああ、あの子、お腹が空いてるんだわ。
　妙に冷静に考えながら、声をかけてきた青年の方を見る。
「あの！　……もしかして、あの子は、君のエンブリオですか？」
「え、あ、ええと、……そ、そう、なんだけど。あの子はあなたのよ、ね、」
　動かないで——と言うか動けないのだろう、そのままの態勢で事態の動向を見守る彼は、指し示した先の追いかけっこを見つつ、頷いた。
「ええ、そうです、どうすれば……」
「ごめんなさい、ちょっと待ってて、……ウルヘア、」
　そう声をかけ、イヌワシの方をきっと見る。
「ウルヘア！」
　一際、強い口調で名を呼ぶ。
　そして、指を手に遣り、大きく息を吹いた。
　高い、大きな音が響く。
「ピィ、」
　直ぐに、些か不服そうではあったが、ウルヘアは子狐を追うことを止めた。
　指笛を吹くのは、彼を呼ぶ時と、緊急時にしかしない。
「……おお」
　その様子を見て、青年はほっとした声音を洩らしていた。
「あの、いきなり、ごめんなさい、……お腹、空いてたみたいで、悪気があったわけじゃ、ないんだけど、……その」
　子狐を抱え上げ、怪我の有無を確認していた青年にそう謝ると、彼は慌てて首を横に振った。気にしないで下さい、と続けて、
「彼も……イェジも疲れただけで、ほら、怪我はしていませんから。ご事情も分かりましたし、大丈夫ですよ」
　腕の中のエンブリオ——イェジを見せて、気に病むことは無いのだと告げた。
　ぜえぜえと忙しない呼吸を整えながら、じいっと、イェジはウルヘアを睨んでいる。その視線には、若干の怯えを感じた。
「でも、」
　怖がらせてしまったのは、確かなことらしい。
　けれどどう言えば良いのか分からなくて、口籠っていたら、
「本当に、大丈夫ですから。ね？」
　と、青年は言った。
　怪我をしていなかったのは良かった。
　ただ、一歩間違えたらそうなっていたかもしれないし、怖い思いをさせたのは間違いない。
「本当に、ごめんなさい」
　私は再度、頭を下げた。
「もう無いだろうけど、また襲っても困るから……行くわね」
　ウルヘアはくるくる上空を旋回して、程なくして杖の上に留まった。
　すぐにこの場を離れるのが良い。
　そう思ったら、ウルヘアはじいっとイェジの方を見遣り、
「……ピッ」
　と、一鳴きを発した。
　普通の人が聞けば、ただの鳥の鳴き声にしか聞こえないそれだけれど——エンブリオ同士は、そうではない。
　私にも、何となくは分かる。どうやら、挑発的なことを言っているらしい。
　……早く、この場から離れよう。
　そうして、平原へと続く道へ、一歩を踏み出す。
　その瞬間だった。
「あ、あの、……っ！？」
　なぜか呼び止めるような声、驚いたように息を呑む音、それから、地を蹴り駆ける音。
「……テ、ワウンッ！」
　振り向けば、イェジがぶわりと毛を逆立てていた。すぐさま威嚇するように唸り、そして、吠えた。
　何か伝えたい、と言うことは分かった。この咆哮には、想いが乗っている。
「え、……えっ、」
　これ、まずいのでは。困惑したように青年を、それからイェジを見た。
　ウルヘアは悠々とした態度で、一鳴きを返す。
「い、イェジ？」
　いきなり吠えた己のエンブリオに、彼も驚いたのだろう。困惑した様子で声を掛けているものの、イェジは意に介さず吠える。
　今度は私が、さっきの彼と同じ状況だ。どうしよう、これ。
　少しの間、ぽかんとしていたら、彼は後ろからイェジをひょいと抱えあげると、
「止しなさい！」
「キャウン！？」
　子どもに遣るように、尻を引っぱたいた。
　その音に、はっとする。そうだ、元はと言えばこちらが悪い。
「ウルヘア、ちょっと黙ってて！」
　挑発的に鳴くのを止めないウルヘアの脳天に手刀を振り下ろす。
　ウルヘアは不服そうな顔をしているが、今回ばかりは気にしてやる必要はない。
　大人しくなったイェジを抱え、今度はミハウが申し訳なさそうに頭を下げた。
「あの、ええと……すみません。本当に」
　そのミハウを見て、首を横に振った。
「いえ、気にしないで。元は、こちらが悪いんだし」
　こんな短時間に、お互いに謝ってばかりだなあ、と思う。

「それで、あの、……他に何か、用でも？」
　イェジが吠える前に、彼は声をかけてきた。何なんだろう、と。
「……あ、はい、ええと」
　そう話を切り出す彼は、躊躇っているように見えた。
「その、……君は、平原へ向かわれるのですよね？」
　放たれた問いに頷きを返せば、
「私も、同じ方へ向かうので……パーティを、組みませんか？」
「……、……は？」
　苦笑混じりの唐突な提案に、思わず、そんな声が出た。目を丸くして、そう返す。
　だって、まさか。
「ええと、……ちょっと待って、」
　今起きたことを、思い出す。いや、思い出すまでもない。
「あなた、本気？」
　お互いのエンブリオの仲は最悪としか言いようがない。それなのに、どうしてそんな提案を、この彼は。
「ええ、本気です。……君が困惑されているのも、承知しています」
　問われれば、彼は苦い笑みを浮かべたまま頷いた。
　一先ず、話を聞くことにする。
　その声は、真摯に聞こえはしたから。

　要約すれば、ウルヘアは食欲はあっても悪気がなかっただろうこと。
　イェジも、訳も分からずいきなり追い回されたから、鬱憤晴らしに反撃しただろうこと。
　それぞれの理由を理解したなら、それをしないよう次から気を付ければ良いこと。
　……私たちに声をかけようとした、理由は。
「それで、君に声を掛けようと思った、最大の理由としては……ルリアンナさんが仰っていた事、です」
　す、と彼の笑みが消えたのは、印象に残っている。
「あの時、わざわざ、誰かと道を行くべきだと彼女が忠告した意味を考えた時、君一人……いえ、君と君のエンブリオだけで、このまま行かせてよいのかと、思ったんです」
　次に言われたことも、よく覚えている。
「私もイェジと二人でここまで来ました。けれど、これから先もそれでやっていける自信はありません。それと、君と組むことでどうなるかも、正直、わかりません。でも……揃って、一揆を生き残れる可能性は高くなる、と」
　そこまで言って、彼の真面目な表情が消えて。
「ええと……その、ですから」
　へら、と笑う。あまり頼もしくは見えない。
「……こんな状況ですけど、君と君のエンブリオが良ければ……ご一緒できると心強い、と私は思います」
　私はその言葉を聞くまで、黙って話を聞いていた。
　彼の考えていることも、声をかけてきた理由は分かった。
「……最初に言っておくけど」
　けれど先ず、言いたいことがある。言わなくてはいけないことがある。
「私、あなたに守られる気はさらさら無いわ。ここまでは来たんだもの、見くびらないでちょうだい」
　はっきりとそう彼に告げる。
　守られることをあてにして、そんな気持ちでここに来たわけではない。
　私は、戦うために来た。
　……それでも。
「あなたの言うことは、一理あると思う。これから先は、私たちだけで上手くいくとも限らないもの」
　私に力が無いことは、知っている。一人よりは、二人の方が、良いのだろうということも。
　ウルヘアに目を移す。
　彼は品定めでもするかのように彼らを見ていたが、ピィと一鳴きをこちらに遣って。
　それに頷きを一つ返して、それから青年に向き直り、言う。
「だから、あなたと『協力』できたら嬉しいわ。……どうかしら？」
　頷こうとしたらしい彼は、ふと、未だに黙りこくったイェジに視線を落とした。
「イェジ、」
「ケっ……もウ、決メたん、だローが」
　青年が小さく呼びかければ、ちらりと彼を見たイェジは、悪態をつきながらそっぽを向いた。
　拒絶した、という訳ではなさそうだ。
　青年は、改めてこちらを見た。
「……はい、もちろんです。元よりこちらが望んだことですし、ありがたいと思います」
　そう私たちに告げてから、柔らかく笑みを浮かべた。
「ええと……では、よろしくお願いします、……あ」
　彼ははた、と目を一度瞬かせた。
「……すみません、名乗るのを忘れていましたね」
　ああ、そういえば。長い間、話していたのに、お互い名乗ってはいなかった。
　居ずまいを正して、彼は名を言う。
「私はミハウ・クワイアトコウスキと申します。彼は、イェジ。……君の名前を、教えていただけますか？」
「……コトカ・ララヤルヴィよ」
　——それが、私とミハウの出会いだった。

　***

　つまるところ、最初から私と彼は間違えていたのではないか、という結論に帰着する。
　出会いがああだったのだ。
　そんな状態で同行して、良い関係が築けるだろうか。
　私が断るべきだったのではないだろうか。
　出会わない方が、良かったのではないか。

　……考えるのが、いやになってきた。
　自分もいやだし、ミハウもいやだ。
　それでも済んでしまったことは、考えても、仕方のないことなのだ。
　一先ず、今は攻城中なのだから、前に進まなくてはいけない。
　緩慢な動作で、私は立ち上がった。
　何も見えない、傍らを見遣る。ウルヘアは、そこにいる。
　ウルヘアは、こういう時は何も言わない。それでも、すぐ傍にいてくれる。
　彼のこういう所は、有り難い、と思う。

　目に滲む涙を拭う。歩き出す。
　どうか、誰にも気づかれませんように。

そう言うと万已楽は手を何もない仰角に向け、砲撃のためのシークエンスに入る

万已楽の腕の手甲のようなパーツが扇型に展開し、バリアのようなものが現れる
次に手のひら自体が開き、万已楽の腕の中から砲身がちょこっと顔を出す

先ほどまでの舌のもつれを無かったことのように涼しい顔で。

自信を持つこと。急に持てはしないだろうが、それでも、なるべく。

それからちろと、瞳でコトカを捉える。

言葉通り、大きなおしりがぴこぴこ揺れて、照れくさそう。
うふふ、とまた笑みをこぼしながら。

手を握り返してもらえば、一層笑みを深め。
きゅっと力を込めて一度握って、手を離す。
鮮やかな緑の袖口、刺繍を撫でる指先を見つめて。

王の耳目を恐れるように、声を潜めて状況を問う。
だが、やはり目はその鮮やかな緑に奪われて。

息をついて、へら、と笑う。