ネクターが、風に揺られて散っていった。

（ネクター）（赤い花）（紅色の生命の華）（わたしを繋ぐもの）（わたしと世界を）（世界）（美しさそのもの）（みずみずしさ）（華やかさ）（肌の艶めき）（金に揺れる髪）（薔薇の唇）（わたしを造るもの）（わたしの骨の骨）（世界が生まれた場所）（骨）（いつか帰る褥）（わたしの、金の、）

（散っていく）

口から零れた声は半ば悲鳴に近い。美しく手入れのされた王城には不釣り合いの、その声の波紋で蝶さえも戦慄くほどの。手が震えて指先から金の針が零れおちた。指先。美しく咲き誇るアコニトがどろりと溶ける。（ああ、これは幻、けれど、けれど）針が地面に刺さる、その僅か聳える塔、朝焼けに輝いていた鳥籠を支える支柱の、その姿。過去の幻、美しかったころの栄光、（美しかった？では今は？）

籠の鳥が美しいのは、意地悪で悪戯な風にも、世の害悪にも、不躾な悪意からも遠ざけられて硝子の中で愛でられているからだ。そこまでして愛を注いだ愛玩対象が逃げ出すことを『世界』は決して赦さない。『世界』は小鳥を愛している、呪うほどに愛している、だからこそ自由に羽ばたく小鳥など、もう壊してしまいたいと願うのだ。だから、どんな裏切りさえも赦さないように、どんな未来からも護ることの出来るように、『世界』は小鳥の中に根付いていく。小鳥が鳥籠から逃げるときには、その翼を溶かしてしまえるように。裏切り者をその手で滅ぼしてしまえるように。世界はウイルスのシステムで保持されている。——『トリカゴウイルス』、フィガロの翼を蝕む一片の血液。

幸運なことに、散った花は彼女の中に最後の残り香をひとつだけ宿した。未だ。未だ、彼女の中で、エンブリオを繋ぎ止めるものがある。エンブリオがなくなれば、彼女の身体は途端に老いさらばえ、そして全身が黒く壊死を迎えるだろう。死の気配が羅紗の向こう側でひっそりと息をする。死。世界を傾けるだけの力が、契約の力が彼女には必要だ。この散った華であとどれだけの日々、美しさを保つことが出来る？　奪ってでも、手折ってでも求めなくてはならない。それが、今の彼女を動かすたったひとつの律。……


……


クロマ・セロシアの存在はタカージュドールに居た時分から聞いたことのあった。酷く高価で、けれど質の高く、豪奢で、何よりも気持ちの良い服だと。気持ちの良い。媚のなく、袖を通すときの肌細胞と鏡に映る己を見るときの視神経に至福をもたらす。タカージュドールにも多くのオートクチュールを生業として構える店はあったけれど、その最高峰と称されるブランドにも負けずとも劣らない——そのような噂を耳にすることもある。
だから、クロマ・セロシアの名前をこのメルンテーゼで見かけた時……それが一夜の夏のことであったとしても、彼女は甚く驚き、そして喜んだ。
何よりも、硝子越しに見かけた服と恐らくはデザイナーであろう男性の視線に、（鶏頭の花のように鮮やかな立ち姿）少女のように胸が高鳴るのを知る。美はやはり、遠ざけられてはいないのだ。どこからも、と。

少女のように。それは、彼女がオルガとヤールを連れ出してクロマ・セロシアに訪れた時の、3人の振る舞いにも相応しく。
はじめてドレスを着たのはいつの頃だったか。はじめて白の塔に迎えられた時も。美しいタカージュドールを支える上澄みの12人。世界は、いつも祝福と輝き、あるいは華やかさ、花のやわらかさ、シプレの香り、獣の肌に迎え入れられる快楽、天高き空からの声、巡る廻る金の光。美しいものが美しいままに赦され、それを永遠だと信じることのできる幸福を、彼女は知っている。花が散るのを喜ぶものはおらず、鳥籠の世界ではそのことが世界のシステムとして組み込まれていた。『世界』。世界に愛される小鳥。美しく着飾り啼くこと、この世の春を謳歌すること、一点の染みもない薔薇のルージュ。彼女が一度失い、言葉通りの生命を懸けて押し留めようとする幸福の在処。

ガッリョ・スプモーニ・セロシアが見立てたサマードレスは、どこまでも儚くけれどパターンの描く強さに満ちていた。肌細胞と視神経の快楽。その言葉を己の胸の奥底で感じる。トルソーではなくひとが来て、動きが生まれてドレスの完成がはじまると口にしたのは誰だったか。
髪をひとまとめにしてあげ、花爪を赤く塗り替えた。アコニトではなく、セロシアの色、燃焼して溶け行く金の泡。セロシア、色あせぬ恋を持つ花。色褪せぬぬ恋。（わたしは）世界に恋をしていた。世界に愛されていた。そのどちらも色褪せていないことを証明するものはどこにもない。もしくは色褪せたと感じる程の世界の鮮やかさも。

支払いを済ませ、外に出ると室内の清涼さからは切り離された甘い熱気が体を包む。

ゆっくり歩いて帰ろうと口にして、ヒールを高らかに鳴らした。夢も恋も美しさも今はかたちに留めて、空気の香りの中に織り交ぜてしまいたかった。夜気も今は心地よく、ドレスの薄く仕立てられた裾が捌かれるやびにフィンの踊る様に揺れてゆく。影が伸びていた。月はどこかにあるのだ。オルガと目くばせをして、ヤールの手を引く。この広い世界で、この大きな潮流の中で、大きな諍いの中で彼女たちは異邦人でしかなかった。けれど、それぞれに戦う意味が、——エンブリオを欲する意味が、ある。

この日の熱気はいつか薄れる。眠れば、また明日は違う一日で世界の色も変わるだろう。明日はまた今日とは違う。花の色が何であれ、必ず手折らねばならない。誰よりも多く、誰よりも早く。そうしなければこの日常はすべて終わる。ほんの真夏の世の夢のように。

海の音が聞こえた。最初は微かで、それもまたウイルスやルヴナンの幻想のようにも思われた。海。深いもの。遠いもの。恐れるべきもの。沈むもの。水は苦手だった。羽ばたく翼が折れた時に行きつく場所。けれど。けれど。（この夜のことをわたしはどうしても忘れることが出来ない。繰り返し日々に思い出す、薄紅の夜気の狂気）

（そう、明日にもきっと）









[SummerVacation]