ENo.1051 レンツォ・ナヴァリエーリ

――『道』

路、途、通、径。呼び名としては、数多あるそれ。
どれだろうと構わないが、その意味する所は変わらない。
すなわち――他者が進み、通りすぎた跡。
幾つもの勝者と敗者が築き上げた、後世の者へと贈る轍に他ならない。
そこは一片たりとて未知が無く、先駆という言葉が微塵も存在しない場所。切り開かれたその空間は、通る者が危うくなる要素を極限まで排除されている。
進むという行動にあたって、そこに障害は無い。

とはいえ実際の所、この世界における『道』はそれほど足場が良い訳でもない。
舗装も何もない、土と砂利で出来た荒野の平地。
ただ一筋、そこが踏み固められているだけ。しかしその程度ですら、この世界では十分に過ぎる。

――否定の世界『アンジニティ』。
この世界において、文明とは荒廃の一途を辿るものでしかなかった。

男は、この世界の以前を知らない。あるいは、誰にも知り及ぶところではないのかも知れない。
申し訳程度の建造物が寄り集まって町の呈を成している事から、その程度の文明はあったのだろうがしかしそれ以上の物はどこにも存在しない。
ある程度の文明がある日を境に荒廃した、というのが最も近い表現になるだろうか。

他国に侵略されたとてこうはなるまいと、経験則から予想がつく。事実、男がこれまで通り過ぎてきたどの街も、一様に荒れ果てた光景を表していた。
奪い奪われは勝者の業だが、これ程まで全域に渡る略奪など例を見ない。人でも獣でもない『何か』が貪ったとしか思えぬ、想像すらつかない規模。

――或いは男が進む先にこそ、その『略奪者』が存在するのかもしれないが。

馬鹿げた話だ、そんなモノなど存在しないと、自分の妄想をまとめ潰す。
”向かう先には出口がある”。この掃き溜めみたいな世界から抜け出し、元の世界へと帰る為の『ゲート』がある。
だからこそ、アイツらは進んでいる筈だ。街に集う連中の瞳に宿る輝きは、その先に希望を抱いている。
そうでもなければその無謀な行為に説明がつかない。
行く先も知れぬ荒野を、ただひたすらに歩いていく。
その、眩しいばかりの行動は――

「つまりは、ただ歩きやすいってだけだ」

そう、それだけの話だ。
どこかの馬鹿が先も知らぬ荒野をさまよって街を見つけ出し、それに続いた連中が最短距離を割り出し、それに沿ってこぞって歩けば平になる。
前人未踏を踏破し、踏査し、踏襲したが故に生まれた道。
真にありがたい話だ。見知らぬ誰かが無駄に犠牲になってくれたおかげで、俺は安全快適に次の街へと移る事ができる。

不意に感じた痛みに、男は顔をしかめる。
痛む足裏、鈍い感触。足下を見れば、角張った小石、路傍の石と呼ぶ事すら憚られるような、あまりにもありふれた礫。
そんなものに意識を裂かれたのかと、男は歯噛みする。
歪む口端。小さな舌打ちと共に、痛みを受けた足が振りぬかれた。
地面から空へと、蹴飛ばされた小石は宙を舞う。その方角は前方。

気にする事など初めから無かったが、男の記憶によればその方角に人の影は存在しなかった。
だが向けた視線、小石が飛んだ方角、その先には”一人の少女の姿”があって――

――ゴシックめいた恰好の頂点に、良い音を立てて礫が跳ねた。

声にならない痛みなのか。脳天に相当の衝撃を受けたであろう少女は、その場にうずくまり両手で押さえる。

あぁ、しくじったな。まあそんな所に『落ちてきた』お前が悪い。
自分の不運を呪うんだな、小娘。

「……大丈夫か、お前？」

歩き寄り、呻く少女へと声をかける。
跳ね返り様、返ってきた言葉は上手く聞き取れなかったが、大まか批難の言葉であろう事は予想がつく。無論、知った事ではないが。

ふと、荷物の中に小箱がある事を思い出した。
前の街で拾った、丁寧に包装されたものだ。
馬鹿な奴だ。こうして綺麗に整えた所で、関係のない俺に拾われている。

「まあなんだ、これでもくれてやる。『この阿呆みたいな世界へようこそ』って餞別だ」

中身など見ていなかったが、どうせ碌な物ではなかっただろう。
呆ける少女の手の内に包みをねじ込む。そのまま、その場を後にした。

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街の北西へと、人が流れていく。
決して少ない数ではなく、足取りが覚束ない訳でもない。

成る程確かに、平らになった地面がその方角から先へと続いている。
左手に山を置いた、迂回のルート。次の街への進路は、あちらで間違いないようだ。
しばらく長居をする予定だったが、既に道が出来ているのであれば話は別だ。

徒党を組んだらしき連中の後に続くように、男も歩を進める。
その中で、ふと頭に先刻の光景が浮かんだ。

……俺らしくない行動だったな。
疲れていたのだろうか。次の街に着き次第、すぐ寝床を確保するとしよう。

そう断じて、男は頭を振る。
ただ前に進むだけだと、小さく飲み込んだ。

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「……はずれ、か」

道の途中、何もない空間で、男はそう呟く。
周囲には、文字通り何もない。無造作に転がった死体も無ければ、うろつく魔獣の姿も無い。だというのに、男はすぐさま引き返していた。

――それこそが、レンツォの『嗅覚』。

周囲に残されたわずかな痕跡が、あるいは超常的な直感が、虫の知らせのように男へと告げているのだ。
「この道の先に、生は無い」と。
獣か、地形か、あるいは人か。何からしらの障害がこの先に待っていると、そう判断したが故の行動。
進めぬ道に用は無いとでも言うように、男は街へと歩を進める。

その歩みに、迷いは無かった。
街を出てすぐさまとんぼ返りするという手間にも拘らず、男の表情に苦悩の色は無い。
男が歩む道、それは既に踏破されていなければならない。そうして作り出された道を、悠然と歩く事こそ彼の美学。
故にその道を、進めぬ道を、意図せずとは彼に代わって進んだ者達は――

「ご苦労。名も無き連中」

――男にとって、大儀ある犠牲だった。