サトリ
	「ふむ、こんなものか」

少年は軽く頷くと、持っていた錫杖を一振りし、縦に持ち直した。海底遺跡内の水が少し揺らいだ。倒れている敵を眺めながら、そっと錫杖についているスキルストーンを触った。

	サトリ
	「本当に、こんな石ころを持つだけで海の中を探索できるなんてな」

錫杖を手放したら、そこについているスキルストーンも手放すことになる。つまり、自分の命もまた手放すことになるのだろう。それは戦いをすることよりも恐ろしいことのように感じた。まさにこの石ころ1つに自分の命を預けているのだ。 海底探索協会の試験会場のように途中で止められることもない。仲間もいない。その状況で、どこまで自分の命を守りながら、探索ができるのだろうか。

	サトリ
	「……僕は本当に臆病だな、エル」

サトリは少し休憩をしてから、また探索のために遺跡の中を歩きはじめた。 ———— 姉さんとクリスが船から落ちていくのを見ていた。

	サトリ
	「（ああ、まただ。）」

姉さんがトラブルに巻き込まれる。クリスはそれを助ける。そして、自分は。

	サトリ
	「（僕は見ていることしかできない）」

僕は誰かのために自分を投げ捨てるほどの愛も、勇気も持ち合わせていない。今も2人が落ちた海を見つめるだけで、何もすることができなかった。追おうと手すりに手をかけたが、足が震えて仕方がない。 2人が落ちたことで、船の中が騒然としてきている。しかし、人々の叫び声もどこか遠くの出来事のように聞いていた。そうしているといつのまにか、僕の精魔、犬型のグリエルムスが足元に来ていた。エルは元々おじいちゃんの精魔だったが、おじいちゃんが死んでからは僕の相棒だ。彼女は落ち着いた声で、「追いかけなくていいんか？」と僕に問いかけた。

	サトリ
	「怖いんだ」

ぽつりと呟いた。「でも追いかけないとまた後悔するじゃろ」と、エルの声は穏やかなままだった。 "また"。幼い日の、あの光景が思い浮かぶ。盲目的に精霊様を信じ、崇め、姉さんやクリスの心を踏みにじった日。おじいちゃんが死ぬ前日。姉さんは大丈夫だと笑っていた。クリスは、蔑みの目を浴びながら決して泣かなかった。彼女らに無理をさせたのは全て僕のせいだった。 「あの時とは違って、わしもついておる。大丈夫じゃ。安心して飛び込みたまえ」と、エルがふさふさの緑の毛を押し付けてきた。その感触で過去から現在へ意識が戻ってくる。改めて海を見ると、姉さんとクリスが落ちたところだけ光輝いていて、あきらかに何かがおかしいことは、ひと目見ただけでわかる。これからそこへ飛び込むと考えると、何故だか笑えてきた。

	サトリ
	「エルはじいさまそっくりじゃな。お前がいると、じいさまに見守られてるようで安心する。……エル、すまんが弱虫な僕のことを支えておくれ」

エルがそっと頷いたのを確認して、僕は両手で彼女を抱きしめた。そのまま目をつぶって、倒れるように自分から海へ落ちていった。 ———— そうして彼は、リンネやクリスと同じように探索者となっていた。しかし今日の探索ではリンネもクリスも見つけることができなかった。サトリは、現在宿の中でグリエルムスの毛並みを整えながら遺跡探索のことを報告している。外はもう真っ暗だった。

	サトリ
	「結構、面白かったぞ。ほれ、海ブドウなんぞを見つけた。海には縁がなかったから珍しいな、エルもそう思うじゃろ。持ち帰れたら、店で売るのもいいかもしれん。あの常連の女の子…緑の髪をした、名はセシリアだったかの。彼女も喜ぶかもしれんし。……エル？寝てしまったか？」

年老いた犬型精魔は、いつの間にかサトリの膝の上で眠っていた。サトリは微笑みながらその頭を撫でて、話を続けた。ただ先ほどまでとは違い、グリエルムスへ向けて話しているのではなく独り言のようだった。

	サトリ
	「……僕はね。結構、楽しみだったんだ。また3人でいられることが。なのに、またバラバラになっちゃって。本当はどうしようもないくらい寂しい。どうしてこうなっちゃうんだろうね。もう後悔はしたくないのに」

姉ならば、精霊様のお導きだと信じられるのだろうか。クリスなら、精霊様を否定することができるのだろうか。

	サトリ
	「僕には、あなたの事がわからない。……わからないのです」

サトリはどちらとも言うことができずに窓から見える夜空を見上げた。 遠くから聞こえる波の音だけが耳の奥に長く残っていた。

	穏やかな海《セルリアン》

穏やかな波、暖かい水温。太陽の光を透かし、キラキラと輝く水中に、
光とともに舞うように鮮やかな熱帯魚達が珊瑚礁に集まる海域。

この世界の窓口である探索者協会からも程近いこの場所は、
色々なところから集まってきたバカンス目的の観光客や、
これから冒険に挑もうとするものたちで賑わっている。

比較的凶暴な生物もいない、穏やかな、冬でも温暖の海である。

遺跡探索

リンネは、この世界の探索者としての一歩を踏み出した。
海底に沈む遺跡の探索——。

誰もがこの海の、この遺跡から冒険の一ページを刻み始める。
とはいえこの辺りはまだまだスタートライン。

もっとこの世界に眠る、謎や宝や未知の生物を目にしたいと願うなら、
このセルリアンの遺跡を抜け、さらなる海域を目指すといいだろう。

海はまだまだ遠く、広がっている。